プロ野球は最初から2リーグだったかも知れない話
- 2021.01.15
- プロ野球史 野球史
- 北海道協会, 名古屋軍, 大リーグオールスター, 大日本野球連盟, 大東京, 大阪タイガース, 巨人軍, 新潟協会, 日本プロ野球歴史秘話, 日本職業野球連盟, 東京セネタース, 正力松太郎, 田中 斉, 金鯱軍, 阪急軍, 鳴海球場, 2リーグ制
日本プロ野球歴史秘話(3):幻のリーグ編その1
日本のプロ野球は1950年(昭25)年のシーズンから、「セントラル」・「パシフィック」の2リーグ制を採用しました。
これによって球団の増加や本拠地の分散が行われ、プロ野球の人気が広がり「国民的スポーツ」と呼ばれるようになりました。
経営的な問題で何度か「1リーグ」への移行話が起きましたが、回避されています。
特に、2004年の「球界再編問題」以降、各チームの積極的な経営努力やファンの熱烈な支持によって安定した状態が続いており、私たちを楽しませてくれていますね。
実は「セ」「パ」の両リーグが出来る前、プロ野球発足当初から「2リーグ制」が採られていた可能性があるんです。
今回は、そんなお話です。
プロ野球の胎動
1934年(昭9)読売新聞の「正力松太郎」は、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを中心とした「大リーグオールスター・チーム」を招聘し、対戦相手として「全日本チーム」を編成しました。
この「日米野球大会」は日本各地で、大入り満員の熱狂をもって迎えられました。
中でも、弱冠17歳の「沢村栄治」投手が大リーグチームを「1点」に抑えながらも惜敗した、静岡・草薙球場での試合は現在も球史に残る快挙です。
「全日本チーム」は結成当初から、大リーグチームとの対戦後に「プロ野球チーム」に移行する事が予定されており、その年の12月現在の「読売ジャイアンツ」の前身となる「大日本東京野球倶楽部」が創立されます。
(現在(2021年)のジャイアンツのロゴに入っている「1934」の年号はここから来ています。翌年(1935年)からは「東京巨人軍」に名称変更されました。)
正力松太郎は、志半ばでで解散していった過去の事例を鑑み、プロ野球の成功には単独チームではなく「リーグ」の設立が必須だと考えました。
そこで、プロ野球の将来性に興味を持つ経営者(新聞社、鉄道会社が中心)に働きかけをします。
大リーグチームとの試合で「プロ野球は儲かるもの」であるという認識もあり、次々に各地で新チームが名乗りを上げました。
この中に、新愛知の「田中 斉(たなか ひとし)」がいました。
この人物が「2リーグ制だった可能性」の、キーマンとなります。
正力松太郎への不信感
名古屋を拠点とする新聞社「新愛知」の主幹・編集局長、田中 斉は、前述の「日米野球大会」の名古屋 鳴海球場*での興行権買い取りを、正力松太郎から打診されました。
それと同時に、名古屋地区を本拠をするプロ野球チームを設立し、正力が構想するリーグへの加入を勧められます。
若い頃にアメリカ留学を経験し、大リーグの影響力を知っていた田中は、この話を受けて新チーム「名古屋軍」の発足に取り掛かりました。
一方で正力は、当時名古屋地区で「新愛知」と激しい販売競争していたライバル「名古屋新聞」へもプロ野球チームの創設を提案していました。
正力の構想では、東京・大阪・名古屋の3都市に2チームずつ配置して全国はもちろん、各地区ごとでも注目を集めリーグを盛り上げるプランだったと考えられます。(九州などにも広げる計画がありましたが頓挫しています)
これを知った田中は、黙ってライバル社にも声を掛けた正力に不信感を持ち、自らリーグを立ち上げる事を決意します。
「大日本野球連盟」
これが田中のリーグの名称です。
*鳴海球場
昭和33年まで、名古屋市にあった野球場。
昭和6年の第一回と、昭和9年の第二回の日米野球が開催されました。
又、昭和11年にはオープン戦ながら「巨人軍」と「金鯱(きんこ)軍」の日本初のプロ野球チーム同士のゲームが行われた場所でもあります。
現在、跡地は自動車学校になっていますが、野球場時代のスタンドが施設の屋根として残っています。
ハッキリと残るプロ野球の創世期からの遺構としては、甲子園球場を除くと、ここ位ではないでしょうか?
鳴海球場跡もプロ野球の聖地と呼んで良いでしょう。
いつか、訪ねてみたい場所です。
「大日本野球連盟」の4チーム
田中 斉は、4つの野球協会(チーム)を作ってリーグを運営するつもりでした。
まず、名古屋を本拠地とし、新愛知が経営する名古屋協会「名古屋軍」。
正力(読売新聞)への対抗として東京協会「大東京軍」を矢継ぎ早に設立します。
こちらは、傘下の「国民新聞」が経営を担当する事になりました。
「大日本」とか「大東京」とか、大げさなネーミングに田中の野望や、正力リーグに対する意地が見てとれますね。
きっと良い人だったんだろうなぁ…田中さん。
他に、新潟と北海道にそれぞれチームを配する予定でしたが、実現はされませんでした。
私(管理人)の調べた範囲では、新潟協会は、母体を系列の「上信日報」とし、選手もある程度揃えた所までは確認出来ますが、その後の動きについてハッキリわかる資料がありませんでした。
又、北海道協会については、全く手掛かりが無く不明です。
この2チームはある程度は設立の動きがあったものの、自然消滅したと考えています。
実現していたとしたら、どんな野球地図になっていたんでしょうかね?
「名古屋軍」結成の時、実際に選手やスタッフ集めの中心となったのが、常務に就任した「河野 安通志(こうの あつし)」でした。
この人物については、以前の連載で触れていますので、こちらもお読みください。
又、「大東京軍」に関しては、こちらの記事で少し詳しく書いてあります。
正力リーグへの合流と田中の最後の意地
一方、正力松太郎のリーグ構想は着実に前進して行きます。
東京に「東京巨人軍」「東京セネタース」、名古屋に「金鯱軍」、大阪に「大阪タイガース」「阪急軍」の5チームが生まれ、リーグに参加する事になりました。
当時の野球人気の中心は「六大学野球」であり、正力リーグの5球団、田中の「大日本野球連盟」4球団の合わせて9球団が一度に誕生したとしても、興行的に成功する可能性は低かったと思われます。
その辺りも考慮の上か、正力は「大日本野球連盟」を自らのリーグに合流させようと田中を説得します。
最初は拒んでいた田中も、新潟協会と北海道協会の設立が不可能と確信した時点でこれを受け入れ、「2リーグだった可能性」はここで潰えました。
上記の5チームに「名古屋軍」と「大東京」の2チームを加え、正力のリーグ構想は完成しました。
リーグの名称は「日本職業野球連盟」となります。
1936年(昭11)2月、東京の日本工業倶楽部においてリーグ創立総会が開かれ、現在まで続く日本プロ野球の歴史がスタートしました。
当時、連盟が出していた公報を読んでみると、田中の2チームの商号(会社の正式名称)だけとても長いことに気付きます。
「名古屋軍」・・・「株式会社大日本野球連盟 名古屋協会」
「大東京軍」・・・「株式会社大日本野球連盟 東京協会」
幻に終わった自分のプロ野球リーグの名称を、正力のリーグに組み込まれた後でもしっかりと残しています。
「田中 斉」の意地だったのか、未練だったのか?
今となっては知ることは出来ません。
(了)
参考文献
『プロ野球70年史 歴史編』ベースボールマガジン社 2004年
『鈴木龍二回顧録』鈴木龍二 (著) ベースボールマガジン社 1980年
『消えた球団松竹ロビンス 1936~1952』野球雲編集部(編)
株式会社ビジネス社 2019年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』
http://www.baseball-museum.or.jp/
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