「国民リーグ」って知ってますか? 前編

「国民リーグ」って知ってますか? 前編

日本プロ野球歴史秘話(4):幻のリーグ編その2

終戦後の1947年(昭22)年、プロ野球史に突如として現れたリーグがありました。
その名を「国民リーグ」と言います。
僅か1年で活動を終えたこの「幻のリーグ」は、球界に少なからず混乱を起こして消えて行きました。

今回は、そんなお話です。



銀座での会談

1946年(昭21)のある日、銀座の中華料理店に3人の男が集まりました。

その中の一人、自動車部品製造業 宇高産業社長「宇高 勲(うだか いさお)」は、半年前から申請していた自身の野球チームの、プロ野球参入を願い出ます。
会談相手の日本野球連盟会長「鈴木 龍二(すずき りゅうじ)」と理事「赤嶺 昌志(あかみね まさし)」は、これを拒否しました。

連盟側の反対理由として、
(1)戦前・戦中に苦労して育ててきたプロ野球に、新参のチームを簡単に参加させる事は出来ない。
(2)ただでさえ、選手の復員(軍隊から戻る事)が遅れ、選手が不足している中でチームを増やすと、試合の質が落ちてファンが満足しない。
(3)連盟の選手を、無断で引き抜いて新チームに加えている。
(4)現在リーグは8チームで運営されていて、新チームを加えると日程上必ず1チーム余る事になり、効率的に試合が消化出来ない。
というものでした 。

宇高は尚も交渉を続けますが、色よい返答を引き出す事が出来ません。
妥協策として、鈴木は以下の様に提案します。

「連盟に参加は無理なので、あなた(宇高)が新たなリーグを作ったらどうか?又、引き抜いた選手の一部をこちらに戻せば、球場の使用などで協力を惜しまない。アメリカの様な2リーグ制で、プロ野球を盛り上げていこう。」

連盟への参加が叶わないと悟った宇高は、この提案を受け入れ、新リーグの創設を決意しました。

この会談が、幻のリーグ「国民野球連盟(以下国民リーグ)」のスタートとなりました。

宇高旋風

戦中、工作機械を製造していた宇高 勲の宇高産業は、戦後になると自動車のホーン(警笛)の生産に舵を切り、順調に利益を増やしていました。
そんな中、友人から復員して身の振り方が決まらない「渡辺大陸(わたなべ たいりく)」の世話を頼まれます。
戦前、大学・社会人野球の名投手であった渡辺を、宇高は快く会社に受け入れました。

当時の宇高は、戦後のすさんだ世情を憂いており、その解消には「野球」が最適であると考えていました。
連合軍占領下の当時、アメリカのスポーツである野球は、大衆にアピールしやすいという理由もありましたが、何より宇高自身が野球少年だった事も大きかったでしょう。

渡辺の入社を機に、宇高は温めていた「プロ野球チーム」の結成に動き出しました。
1946年(昭21)夏の事です。

選手集めは渡辺が出身校「明治大学」のツテを使い、同校卒のプロ野球選手を引き抜くのと並行して、宇高自身がシーズン中の球場に乗り込んで入団交渉をしたケースもあった様です。
宇高や渡辺のあまりにも大胆不敵な行動は、当然既存球団の知るところとなり「宇高旋風」と呼ばれ、恐れられる様になりました。

当時は、現在のような「統一契約書」や「野球協約」は存在せず、日本野球連盟以外のチームへの選手の移籍は、ほぼ自由という状態でした。
宇高が新チームへの移籍を取り付けた選手は8名。
内訳はグレートリング(のち南海)から6名、巨人から1名、阪神から1名で、この内の4人が明治大学出身で、まさに宇高の思惑通りといったところでしょうか。
(この内、藤本英雄(ふじもと ひでお)【巨人】と安井亀和(やすい かめかず)、河西俊雄(かわにし としお)【南海】らのスター選手は、前述の鈴木龍二らとの会談で、元のチームに戻る事になりました)

これらの選手に、元プロ野球選手や学生、社会人を加え、監督には渡辺が就任し新チームは始動しました。

その名も「宇高レッドソックス」。

宇高の大きな夢と苦難の始まりでした。

東奔西走

「レッドソックス」のチーム編成と並行して、宇高は「国民リーグ」立ち上げに掛かりました。
元セネタース監督の「横沢三郎(よこざわ さぶろう)」を連盟の事務局長に迎え、自身は会長に就任。
プロ野球に、興味を持っていそうな企業を探して奔走します。

1946年(昭21)末の時点で、国民リーグ参加が決まっていたのは、「宇高レッドソックス」と「グリーンバーグ」の2チームのみでした。

この「グリーンバーグ」は、宇高とは別のラインでプロ野球参入を考えていたチームで、広島の「鯉城園(りじょうえん)」という社会人チームと、やはりプロ野球を目指した「東京カッブス(カブス)」の選手が中心となった球団です。
後に広島カープの初代監督となり、その存続に苦闘をした「石本秀一(いしもと しゅういち)」が監督として在籍していました。
オーナーは、東京 雪ケ谷で日本産業自動車という工場を営む「藤代藤太郎(ふじしろ ふじたろう)」です。
このチームも、宇高と同様に日本野球連盟入りを果たせず、国民リーグに参加する事になります。

追記
グリーンバーグのオーナー藤代が経営する「日本産業自動車」を、大手の「日産自動車」勘違いし、入団した選手が実態を知って唖然とした、というエピソードが残っています。現在とは比較にならない位、情報量が少ない時代とは言え、ちゃんと調べず参加を決めてしまうあたり、終戦直後の野球人の熱さが感じられてる話ですね。


宇高はリーグを6もしくは、8球団で運営するのが望ましいと考えていました。
「塩野義」「わかもと」「吉本興行」など、有力な社会人チームを持つ企業と交渉しましたが、どの会社からもよい返事はありません。
「鐘紡」は参加の意思を見せていましたが、チームの編成をめぐってGHQからの横やりが入り断念、「いすゞ自動車」は社長の言質は取ったものの社内調整が上手くいかず断られるなど、あと少しというケースもありました。

そんな中、「鐘紡」からある会社を紹介されます。

唐崎産業。
戦中、海軍に清涼飲料を納入し、戦後はサイダーの製造販売で急成長していた会社です。
この時期、唐崎産業は社会人野球に参加するため、元プロ選手を中心にチームづくりをしている最中でした。
宇高の訪問を受けた社長の「唐崎専弥(からさき せんや)」は、チーム監督の「笠松 実(かさまつ みのる)【元阪急投手】」と共に、その場で国民リーグ参加を決めたと言われています。
唐崎もやはり野球狂の一人だったと言えるでしょう。
チーム名は同社の商品、クラウン・サイダーにちなみ「唐崎クラウン」に決定しました。



この頃、千葉県松戸市に「大塚幸之助(おおつか こうのすけ)」という人物がいました。
戦後の物不足の中、洋傘の骨の製造でトップシェアを誇る、大塚製作所社長です。
大塚は、自社の野球チーム「大塚アンブレラ」用に、敷地内に野球グランドを作り、ゆくゆくは社会人野球に進出する野望を持って、チーム強化に力を入れていました。

ある日、自チームの監督が一人の男を紹介しました。
国民リーグ事務局長の横沢三郎の弟「横沢四郎(よこざわ しろう)」です。
四郎は兄の名代として、大塚にリーグ参加の提案をします。

興味を持った大塚は後日、宇高の招待を受け会談に臨みました。
ここで宇高は、国民リーグ創設の経緯や野球への情熱を語り、大塚の参加を熱望。
その人柄に感銘を受けた大塚は、軟式チームである「アンブレラ」を硬式に改編し、リーグに参加する事を決意します。

会談中、宇高と大塚は、少年時代に見た「職業野球」の思い出を、時を忘れ語り合ったそうです。
大塚もまた、野球少年だったのですね。

「アンブレラ」を母体にした「大塚アスレチックス」は、「三宅大輔(みやけ だいすけ)【元巨人監督】」を監督に迎え、多数のプロ選手を補強してリーグに参加します。


宇高レッドソックス
グリーンバーグ
唐崎クラウン
大塚アスレチックス

宇高の構想よりは少ない数ですが、国民リーグの4チームが揃いました。

国民リーグの船出

1947年(昭22)3月19日、有楽町の日動ビルにマスコミや球界関係者を集め、
「国民野球連盟」創立披露パーティーが開かれました。

スピーチの壇上、連盟理事の横沢は、
・差し当って「レッドソックス」と「グリーンバーグ」の2球団で発足し、各地でリーグ披露のオープン戦を行う事
・7月からは「クラウン」と「アスレチックス」を加え4球団によるリーグ戦を開幕する事
・更なる球団の参加の可能性(実現せず)
などを発表しました。

この時、それを見つめる宇高の胸には、どんな思いが去来していたのでしょう。

マスコミ関係者から差し入れられた、2樽のワインで乾杯し、宴の夜は更けていきました。

 


中編に続く

(国民リーグって知ってますか? 前編 了)