海を行く列車 ~西郷どんと陸蒸気~

海を行く列車 ~西郷どんと陸蒸気~

高輪で見つかった遺構って?

JR山手線「高輪ゲートウエイ」駅周辺の再開発工事で、明治時代の鉄道遺構が発見されました。

これは、1872年(明5)わが国初の鉄道が通った線路の路盤の跡で「高輪築提(たかなわつきてい)」と呼ばれるものです。
開業当時のこの場所は東京湾の中で、「高輪築提」はそこに建設されました。
つまり列車は「海の上」を走っていた事になります。

なぜ、そんな場所に鉄道を通したのか?
それにはあの維新の英傑「西郷隆盛」の旧薩摩藩が大きく関わっていたと言われています。

今回はそんなお話です。


明治政府と鉄道


日本史の授業で、明治時代に「中央集権」「文明開化」「殖産興業」「富国強兵」などのキーワードが出てきましたね。
『江戸時代の体制から天皇を中心とする国家へと形を変え(中央集権)、欧米列強の帝国主義に飲み込まれて植民地にならぬよう、西洋文明を取り入れ(文明開化)産業を興し経済的に豊かになり、かつ軍事力も強化する(殖産興業・富国強兵)』
そんな盛りだくさんの目標をもって、日本の近代化はスタートしました。

明治が始まった頃、大蔵・文部省の若き官僚「大隈重信」と「伊藤博文」は、これら政府の目標を実現するためには「鉄道」の建設が最適と考え、計画を推進します。

なぜ、「鉄道」だったのか?
これには、大隈が「佐賀藩」、伊藤が「長州藩」の出身であったことが大きく関わっています。

幕末の佐賀藩は「蘭学」の習得に熱心な土地で、欧米における「産業革命」のきっかけとなった「蒸気機関」を研究していました。
1853年(嘉永6)、ロシアの「プチャーチン」が長崎に来航した際に、「蒸気機関車の模型*」を走らせたことがあり、それを見た佐賀藩士の報告を基に藩をあげて研究、走行可能な模型を完成させました。
藩校である弘道館の庭で完成した模型を走らせた時、生徒であった大隈もそれを見ていたとしたら、この技術こそが将来の日本に必要であると確信したことでしょう。

一方、伊藤の「鉄道」との出会いは、もっと具体的で衝撃的なものでした。
1863年(文久3)、長州藩は西洋の文化・技術を学ばせるため、5人の若者をイギリスに密航という形で派遣します。
いわゆる「長州五傑(長州ファイブ)」と呼ばれる人たちですね。
この中の一人が伊藤でした。
経済が大きく発展した、産業革命のさなかのイギリスで、高速で大量の人や貨物を輸送する鉄道の威力をまざまざと見せつけられた伊藤が、明治の日本で「鉄道」の建設にまい進していく事は当然のことと思われます。

大隈と伊藤は政府要人を説得して回り、1869年(明2)11月、日本初の「鉄道」の建設が政府決定とされました。

「鉄道」は、政府の挙げた目標である「文明開化」(西洋の技術の導入)と「殖産興業」(輸送の革命による産業の発展)に必要なものであると同時に、「中央集権」を進める日本のシンボルになるとの判断でした。

残る政府目標「富国強兵」について、この後少々やっかいなことが起こります。

*蒸気機関車の模型
ペリーが2度目に来航した時(1854年)、幕府への献上品として機関車の模型を持ってきています。
こちらは横浜で走行を披露したあと、江戸城へ納められましたが火災で失われてしまいました。
又、福岡藩や加賀藩、長州藩などでも蒸気機関車の模型を製作したり、購入したりした記録が残っていますから、当時の各藩がいかに西洋技術の習得に懸命だったかが想像できますね。


佐賀藩の模型は現存する最古のものとして、鉄道記念物、並びに佐賀県重要文化財の指定を受けています。

兵部省と旧薩摩藩


「鉄道」の建設に関して、政府は必ずしも一枚岩とは言えない状態でした。

当時の明治政府は財政的にまだまだ貧しく、国家予算のかなりを占める建設費用について各省庁から非難が殺到しました。
又、鉄道のレールや機関車など日本ではまだ作れないものばかりで、海外から輸入しなければなりませんから、邦貨の流失も問題とされました。

大隈と伊藤は、これらの問題の処理に奔走します。
資金については、海外の投資家に騙されそうになりながらも、イギリスの技術者の雇用や資材の購入を条件にオリエンタル銀行からの融資で何とか確保しました。
輸入資材も鉄製で予定された枕木や鉄橋を、国内で調達できる木製に変更するなどして節約に努めました。

資金以外でも、政府のやり方に不満をもつ士族や、「鉄道」の開通で生活の糧を失う沿線の市民などからの反対も多くありました。

特に強く「鉄道」建設を非難したのが、「兵部省(陸・海軍)」と「旧薩摩藩」です。

「兵部省」の反対理由は、用地をめぐるものでした。
東京側の始発駅「汐留(新橋)」周辺の土地を「鉄道」と「海軍」が取り合う形になってしまい、結果「兵部省」をあげて反対の立場をとります。
更に「兵部省」は、鉄道が通る東京湾沿岸は軍の施設が多くあり機密保持に問題があること、外国人の通行が多くなり不測の事態が起きた場合、外国軍駐留の口実になりかねないこと、海軍用地の拡大に支障をきたし都市防御の障害になることなどをあげ、軍備を充実させずに大金を使って「鉄道」建設することは不当であるとして、計画の中止を訴えました。

「旧薩摩藩」も反対の立場を取っていました。
1870年(明3)、明治政府に請われて出府した「西郷隆盛」は、「改革意見書25か条」の中で、「外国の繁栄をうらやんで自国の財力を省みず大きな事業を起こせば、いずれ立ち行かなくなるだろう。蒸気を使った鉄道などは全て廃止して、軍備の充実に勤めるべきである。」と述べています。

「兵部省」と「旧薩摩藩」に共通している意見は、軍備の強化こそが最優先であるということです。
当時の列強諸国は世界中で植民地支配のために、軍艦を伴った「砲艦外交」を展開していましたし、日本国内でも特権を失った不平士族などが各地で反政府的な行動をとっており、それらに対抗するため軍備の増強を最優先すべしという意見も当然であると思われます。

「鉄道」を起爆剤として経済を発展させ、豊かな国となることを目指した「政府」。
軍を強くして、内外の敵の侵略を阻もうと考える「軍部」。
どちらも正論ですね。

政府のスローガン「富国強兵」。
「富国」と「強兵」、正論と正論が真っ向から対立する事態となっていたんです。

海を行く列車


1870年(明3)、イギリスからの鉄道技術者が到着し「汐留」~「横濱(現:桜木町)」間の測量が開始されました。

「品川」~「横濱」の測量・工事は順調に進んでいたのですが、そこから北の「汐留」~「品川」の区間では滞りがちでした。

この区間には、反対派の急先鋒「兵部省」の用地が点在してる上、「薩摩藩邸」が建っていました。
「兵部省」は、「鉄道」の外国人を中心とした測量隊の立ち入りを拒否し、政府が決定した軍用地の「鉄道」への明け渡しを遅らせるなどの態度に出ました。
「薩摩藩邸」は敷地の海側に線路を建設したいという「鉄道」の要望を受け入れず、工事が進まない状態に陥ります。
それ以外にもこの区間は、東海道に面して旧藩邸や漁民家が立ち並び、その裏や街道脇がすぐ浅瀬の砂浜になるという地形で線路用地を確保することが難しく、加えて反対派もこの地区の漁民が中心となっているなど、問題をさらに厳しくしていました。

この窮地に大隈は起死回生の指示を出します。

反対派の土地を使用せずに、海の上に列車を通す

つまり、「汐留」を出発した列車は「薩摩藩邸」の手前から、海上に作られた「築提(つきてい)」と呼ばれる長さ2.7キロ・幅約6メートルの細長い埋め立て地(堤防のようなもの)を通り、品川へ到達するというプランです。
去年(2020年)に出土した「高輪築堤」がこれに当たります。

世界にも類を見ないかなり無茶な計画と思われますが、幸い幕末のペリー再来航に備える海上砲台として、「お台場」を建設した経験がありました。
「築提」の工事は「お台場」建設の技術を生かし、同様に石積みで丈夫に作られました。
使用された石材は、未完成だった「第七台場」を解体したり、東海道沿道の石垣を再利用するなどして調達したようです。
又、「築提」に閉じ込められる形になる漁民のために4か所ほど切れ目を作り、漁船の出入りができるよう鉄道橋(木製)が架けられ立体交差とされました。

用地の問題で遅れていたこの区間の工事も、1872年(明治5)7月に完成し試運転が始まります。

大隈の構想した~海を行く列車~が現実のものとなった瞬間でした。

~海を行く列車~ 右端に漁船を通すための「木橋」が見えます  (日本国有鉄道百年史 通史より)

重要文化財「新橋横濱間鉄道之図」から「高輪築堤」区間を拡大。赤線が鉄道路線です。(画像クリックで拡大)
(国立公文書館デジタルアーカイブより)

「新橋横濱間鉄道之図」 全体図はこちらです。(画像クリックで拡大)
(国立公文書館デジタルアーカイブより)

追記
「高輪築堤」以外にも、列車が海を行く区間がありました。
現在の横浜市内の青木橋(現:京急神奈川ちかく)から高島町にかけての区間がそれに当たります。

(上画像「新橋横濱間鉄道之図」の左側です)

こちらは反対派対策ではなく、地形をショートカットするために作られました。
長さ1.4キロメートル、幅65メートルとかなり幅広のものです。
民間人の「高島嘉右衛門」が入札をして、8ヶ月足らずで完成しています。
契約は少々変わった形で、工事費を支払うのでなく、完成した線路と道路以外の土地は無税で施工者のものとなるというものでした。
工事費の節約のため、政府が考え出した妙案です。

現在の横浜市 高島町の地名はこの「高島嘉右衛門」の姓から由来しています

西郷どんと陸蒸気


様々な政治的・資金的・技術的問題を乗り越え、イギリス人技師の指導の下「鉄道」の建設は進んでいきました。

輸入資材の陸揚げ港である「横濱」から北へ順次レールが敷かれ、それに伴って試運転の区間も伸びていきます。
沿線の人々は、機関車が煙を吐き出し走る様子を見て、いつしか「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ぶようになりました。
海には「蒸気船」、陸には「陸蒸気」。
当時の最先端技術を使ったこれらの乗り物は、日本の近代化のシンボルとして国民に強い印象を与えたことでしょう。

「品川」~「横濱」での仮開業期間を経て、1872年(明5)9月12日、日本初の「鉄道」は開業式を迎えます。

路線距離29キロ、停車駅は「新橋(汐留から変更)」「品川」「川崎」「鶴見」「神奈川」「横濱」の6駅、所要時間は約50分。

開業式当日、新橋駅は万国旗や紅白の提灯で飾られ、日比谷の練兵場や東京湾に停泊中の軍艦からは祝砲が放たれるなど、祝賀ムードが溢れました。
沿線には見物の市民が多数詰めかけ、各戸には日の丸が掲げられ東京が「鉄道」一色に染まった日となりました。

午前10時、明治天皇を筆頭に、華族、政府要人、各国公使らを乗せた特別列車は、万歳の声に送られ「汽笛一声」新橋を出発します。

この列車の錚々(そうそう)たる乗客名簿に「西郷隆盛」の名前がありました。

自身が建設を強く反対した「陸蒸気」の車内で「西郷(せご)どん」は何を思ったのでしょうか...

追記
「鉄道」の開業式が行われた9月12日は、現在の太陽暦に当てはめると10月14日になります。
1922年(大11)、鉄道省は鉄道博物館(初代)の開館を記念して、この日を「鉄道記念日」と制定しました。

1994年(平成6)からは名称を「鉄道の日」として、JR各社だけではなく日本の鉄道全体の記念日となっており、全国各地で鉄道に関するイベントが開かれています。


開業時期の鉄道の旅がどんな風だったのか?
陸蒸気で行く 横濱への旅」でどうぞ!



「高輪築堤」は明治時代末期、沖合への埋め立てによって姿を消しました。
今回発見された遺構は鉄道用地の中にあり、「築提」を壊さず土を掛けただけの埋め立てによって、奇跡的に残っていたものと思われます。

2021年4月21日、JR東日本は「高輪築堤」の保存を発表しました。
遺構の約80mをそのまま現地保存、再開発で計画されている公園の中に約40mを保存する他、隣接する土地に約30mを移築保存する計画です。
それ以外は慎重に解体し記録調査される部分と、土に埋めたまま現地保存される部分になるそうです。
まぁ、全長800mもある遺構ですから、全部を残すわけにはいかないでしょうね。
今回のJR東日本の発表に「鉄道好き」「歴史好き」の一人として、安心すると共に大変感謝しています。

何年先になるかわかりませんが、公開されたら真っ先に見学に行きたいと思っています。

参考文献
『日本国有鉄道百年史』(編)日本国有鉄道 1969年~74年
『日本の鉄道 創世記~幕末明治の鉄道発達史~』(著)中西隆紀 2010年 河出書房新社

『国立公文書館デジタルアーカイブ』 https://www.digital.archives.go.jp/
『JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社 公式ページ』 https://www.jreast.co.jp/

海を行く列車~西郷どんと陸蒸気~ (了)