大正時代にプロ野球チームがあった?!
- 2021.07.05
- プロ野球史 野球史
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日本プロ野球歴史秘話(8)
ご存知のように、現在のプロ野球は、1934年(昭9)の「大日本東京野球倶楽部」(現:読売ジャイアンツ)に結成を源流に持ち、現在につながっています。
それ以前の大正時代に、2つのプロ野球チームがあったことを知っていますか?
「日本運動協会」と「天勝野球団」。
この「日本初」と「2番目」のプロ野球チームは、どちらも「昭和」を待たずに解散してしまいましたが、とても魅力的な存在でした。
「日本運動協会」については”日本初のプロ野球チーム”として、現在でも記述や資料に取り上げられることがありますが、「天勝野球団」は野球史の資料や書籍の中でも触れられることが少なく、あまり知られていません。
けれど、この両球団について調べていくと、当時の野球事情がわかって結構面白いんです。
今回は、そんな大正時代のプロ野球についてのお話です。
明治・大正の野球と「日本運動協会」
明治時代の初めに、米国人宣教師や留学から帰った日本人によって我が国に伝えられた「ベースボール」は、学生野球を中心に発展していきました。
特に、一高(現東大)や早稲田、慶応などの「大学野球」は学生だけでなく、広く国民の注目を集めていました。
明治の終わり頃になるとその人気が異常に加熱し、観客や応援団が絡んだ乱闘事件、審判への脅迫などが起こり、あまり良好とは言えない事態に陥ります。
又、校名を知らしめるための有力選手への過分な優遇や、スターとなった学生選手の堕落した行動なども問題とされ、野球に対する世間の風当たりが強くなっていきました。
この事態を憂いた野球人の中から「プロ野球チームを創設して学生の模範とし、野球界全体の健全化を目指そう」と立ち上がったのが、早稲田OBの「河野安通志」、「橋戸 信」、「押川 清」の3人です。
彼らは資金を出し合い、広く出資者を募り、1920年(大9)に「合資会社日本運動協会」を設立。
新聞広告で選手を募集すると同時に、専用の「芝浦グラウンド(球場)」の建設を始めました。
「日本運動協会(通称:芝浦協会)」は、自身の野球チームの試合や海外チームなどを招聘しての興行の他にも、野球場や併設されたテニスコートの貸し出し、運動用品の販売など多岐にわたる業務を主な収入としていたそうです。
協会の方針として、選手たちは当分の間は対外試合を行わずに、野球の練習と学業(英語、数学、簿記等)に専念をしました。
又、その生活も厳しく管理され「模範とされる野球人」を目標に、選手の人間教育に力を入れました。
この選手の中には、後の「大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)」の創設メンバーのひとり「山本栄一郎」がおり、主将を任されていました。
崇高な理念で設立された、大正野球人の理想「日本運動協会」は日本初のプロ野球チームとして、歴史に刻まれています。
「河野安通志」については、こちらの記事でも触れています。
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2番目のプロ野球チーム
「日本運動協会」の選手たちが研鑽を積んでいた1921年(大10)2月、突如として誕生した2番目のプロ野球チームがありました。
その名も「天勝(てんかつ)野球団」。
当時、その美貌で大人気を博していた「松旭斉天勝(しょうきょくさい てんかつ)」という奇術師(今で言うマジシャン)がいました。
伊藤博文や後藤新平など要人も彼女のファンであったといわれ、若き日の作家・三島由紀夫は天勝の舞台を見て、心を奪われ『私は天勝になりたい』とまで著書に記しています。
正に「魔術の女王」「流し目の天勝」と呼ばれた天勝の面目躍如といったところでしょうか。
そんな天勝の夫でありマネージャーでもある「野呂辰之助」は野球団を結成し、「天勝奇術団」の宣伝に利用する事を思いつきます。
ー奇術団の巡業先に前乗りして、地元の強豪チームと「天勝野球団」の試合を行って人気をあおり、「天勝奇術団」の公演に観客を集めるー
”企業の宣伝媒体としての野球チーム”
日本プロ野球の経営スタイルの祖先が、ここに生まれていたと言えるでしょう。
野呂は、早稲田OBが中心となった「日本運動協会」を意識してか、慶応の元エース「小野三千麿」をコーチに招聘、
各大学の有力OB選手を好待遇で入団させます。
多分、プロ野球での「早慶戦」を目指していたのではと推測できます。
単なる宣伝目的の球団であるならば、ここまでしてチームを立ち上げる必要があったとは思いません。
「作るからには強豪チームを」という、野呂の意思が強く感じられます。
野呂は「鶴芳生」というペンネームで野球雑誌に「天勝野球団」について寄稿し、その中で『天勝野球団は広告のためのものではありません。商売とは全く別の存在です。試合に負けたからといって奇術団の興行に来ないような、了見の狭い人は来なくて結構です。』という内容を書いています。
自身の球団への自信と愛情が表されたものですね。
「日本運動協会」の河野らと同じく、野呂もまた大の野球好きだったのでしょう。
野球史の資料の中には、「天勝野球団」が”プロ野球チーム”ではなく、奇術団の”社会人野球団”ではないかと疑う記述もありますが、当時の関係者の証言などからも、実際に選手たちが奇術の興行で労働した形跡は無く、選手たちは野球で給料を得ていました。(舞台道具の搬入出程度は手伝っていたという証言はありますが、選手たちが何もせずに、宿屋でゴロゴロしてた事に不満をもつ団員もいたようです)
又、1923年(大12)小野三千麿が退団した際、後釜として小野から使命を受け、主将に就任した慶応OBの「鈴木関太郎」は、雑誌の中で『我々は野球以外の仕事はしていません。完全なるプロチームです。』と言い切っています。
この辺りの不明瞭さが「天勝野球団」が野球史の中であまり語られない理由かも知れません。
私(管理人)は、野呂辰之助の熱意と、鈴木関太郎の断言を鑑みて「天勝野球団」は”プロ野球チーム”であったと思っています。
崇高なる理念と宣伝目的、早稲田人脈と慶応人脈、人間教育された若手選手と大学野球OB選手。
チームカラーの異なる「日本運動協会」と「天勝野球団」という2つのプロ野球チームは、遠く大正の時代にこうして生まれました。
「天勝野球団」は、後にパシフィックリーグ会長となる「中沢不二夫」をはじめ、大学野球出身の選手が中心となったチームでしたが、その中には異色の選手が混じっていました。
「青山金太郎」という力士出身の投手がそれで、体格を生かした剛速球で活躍したそうです。
どんなピッチャーだったか、ちょっと気になりますね。
お父さんが力士だった、読売ジャイアンツの「山口 俊」選手をなんとなくイメージしちゃいます。
あ。怒られるか。
「日本運動協会」対「天勝野球団」
1922年(大11)、練習を積んだ「日本運動協会」の選手たちは、初の対外試合のため朝鮮および満州への遠征に旅立ちます。
当時、この地域には日本の企業が多く進出しており、大学を卒業した多くの有名な野球人がそこで活躍していました。
新球団の腕試しには、もってこいの環境ですね。
それに加えて、本土からの野球チームは人気も高く、興行面でのメリットも考慮に入れての事かと思われます。
釜山を皮切りに大陸を北上する形で試合を行い、各地の企業・クラブチームを相手に、12勝5敗の好成績を得ました。
一方の「天勝野球団」は、奇術団に同行し日本各地を転戦。
大学野球出身者で固められたチームはかなりの実力を持っており、当時ノンプロで最強と言われていた「大毎野球団」を破り、その名を高めました。
マネージャーである野呂は得意の絶頂にあったでしょう。
しかし、座長の天勝が野呂に内緒で興行主の顔を立てるため、試合に手心を加えるよう選手に指示を与えていた試合もいくらかはあったようで、たまに見せるふがいないプレーや、不可解な敗戦を野呂は心底悔しがっていたと伝えられています。
1923年(大12)年の春、「天勝野球団」は奇術団の朝鮮・満州巡業に帯同しました。
ここでは、本領を発揮し各地で強豪を次々に撃破。
実に、21勝1敗という好成績を納めます。
同じころ、第2回目の同地遠征を行っていた「日本運動協会」は、京城(現:ソウル)で「天勝野球団」と顔を合わせます。
ここで、遂に日本初の「プロ野球チーム」同志の対戦が実現しました。
あらゆる面で対照的な2チームのよる「プロ野球の早慶戦」は、京城郊外の龍山満鉄球場で2試合行われました。
6月21日の第一戦は「天勝野球団」が6-5で勝利。
3日後の6月24日の第二戦は「日本運動協会」が3-1で雪辱しました。
星をわけた両軍は決着をつけるため、帰国後の8月30日に「芝浦球場」で第三戦を行います。
この試合は野球ファンの注目を集め、木造のスタンドには多くの観客が詰めかけたと記録にあります。
結果は投打において巧みに試合を運んだ、「日本運動協会」が5-1で快勝しました。
しかし、いよいよ始まった「プロ野球」の時代への期待は、思わぬ形で崩壊してしまう事になります。
関東大震災
1923年(大正12)9月1日、東京地方を大きな揺れが襲います。
「関東大震災」と呼ばれるこの地震によって、東京周辺は灰燼(かいじん)に帰しました。
わずか3日前に両軍の選手たちが駆け巡り、歓声に沸いた「芝浦球場」は、グラウンドには亀裂が入り、液状化するなどの被害に見舞われました。
「日本運動協会」の河野ら首脳や選手たちは幸い無事でしたが、翌2日から敷かれた戒厳令によって芝浦のグラウンドとクラブハウスは、復興資材の集積所などに徴発されてしまします。
「震災の混乱の中では、プロ野球どころではない」と判断した協会首脳は、選手たちを一旦郷里に返すこととし、芝浦の本拠地が再び使用できるまでは、活動を休止する決定をしました。
「天勝奇術団」は震災当日、浅草で公演中でした。
団員たちは、上野の山まで避難して命拾いしましたが、折から発生した大火災によって舞台道具や衣装の一切を失い、興行が打てない状態となってしまいました。
座長・天勝とマネージャー・野呂は、一座の復興と翌年に予定されている訪米公演の準備に奔走する事となります。
「天勝野球団」の選手たちの震災時の行動はくわしく記録に残っていませんが、多くの者は東京を離れ、野呂が愛情と情熱を注いだチームは四散したと思われます。
当初は、帝都復興のための喜んで用地を提供したという河野でしたが、翌年になってもグラウンドは返還されないばかりか、スタンドやフェンスは解体され、フィールドにはバラックや倉庫が立ち並ぶ様子を見て、この地での活動再開は困難と判断し、1924年(大13)年1月23日「日本運動協会」の解散を涙ながらに発表しました。
尊敬される野球人として立つべく努力を重ね、実力を付けつつあった矢先の出来事に、協会首脳や選手たちの心情は想像するに「無念」に尽きるでしょう。
初試合から1年半の間に、103戦67勝24敗9分の戦績を残し「日本初のプロ野球チーム・日本運動協会」はその球譜を書き終えました。
その後の「日本運動協会」と「天勝野球団」
「日本運動協会」解散の報に触れ、その救済に動いた人物が関西にいました。
「阪神急行電鉄(阪急)」の経営者、小林一三です。
小林は自社の所有する宝塚の野球場の専属チームとして「日本運動協会」を丸ごと引き受けようと、河野に提案しました。
この吉報に河野は、阪急への移籍を快諾。
1924年(大13)2月25日、新たに名称を「宝塚運動協会」とし、チームは再出発する事となりました。
移籍交渉に臨んだ河野は、唯一の条件として「選手たちの学業の継続」を出したそうです。
この危機に際しても、立派な野球人を教育したいという「日本運動協会」の基本理念だけは守ろうとした、河野の強い意志が伝わるエピソードです。
「宝塚運動協会」は1929年(昭4)まで活動した後、解散しました。
「天勝野球団」の野呂は、奇術団再建の目途がついた辺りで球団を再結成していたようです。
しかし、震災以前に在籍していた選手はすでにおらず戦力的には随分と見劣りする陣容で、プロ野球とは呼べないチームであったともいわれています。
奇術団がアメリカでの公演に出発した1924年(大13)1月頃、この再結成チームも解散しました。
日本の野球界は次のプロ野球チームの誕生を、1934年(昭9)まで待つことになります。
「宝塚運動協会」を新球団としてカウントするか否かの説があるようです。
つまり、「日本運動協会」「天勝野球団」に次ぐ3番目のプロチームとして数えるか、「日本運動協会」の親会社変更に伴う名称変更に過ぎないので数に入れないという意見です。
私(管理人)は、「日本運動協会」はいちど法人的に解散している事、所属した選手が後の「巨人軍」を「4番目のチーム」と指摘している事と理由に、「3番目」のプロ野球チームであるとと認識しています。
「日本初」と「2番目」のプロ野球チームが活動していたこの時代。
スポーツを職業とすることは、まともな仕事ではないと考えられていました。
観客からは心無い野次が選手たちに浴びせられたと、多くの記事が語っています。
そんな中、合宿中の「日本運動協会」を見た早稲田大学野球部部長の「安部磯雄」は、選手たちの練習態度と振る舞いに大いに感心し、同大学との試合を許可したそうです。
以降、他大学やクラブチームからの試合の申し込みが相次ぎ、その名は高まっていきました。
「日本運動協会」の理念が、大正の野球界に浸透しつつあった証明といえるでしょう。
「現在の日本には、プロ野球を名乗るいいかげんなチームは多くあるが、その中でプロといえる実力があるのはこの2球団のみである」
「天勝野球団」との第三戦に際して、「日本運動協会」の河野はこんな意味の言葉を残しています。
実力充分なチームに対してその力量を認めるとともに、良いライバルが登場したことの嬉しさが感じられます。
「もし」この2球団が、そのまま順調に育っていたとしたら、100年後の今日「日本プロ野球」はどんな形に発展していたのか?想像は尽きません。
参考文献
『異端の球譜「プロ野球元年」の天勝野球団』大平昌秀 (著) サワズ出版 1992年
『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』坂元邦夫(著) 岩波書店 2020年
『歴史に学ぶプロ野球16球団拡大構想 』安西巧(著) 日経BPマーケティング 2020年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』
http://www.baseball-museum.or.jp/
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