なぜ「東京オリンピック」を「ハマスタ」で?
- 2021.07.09
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日本プロ野球歴史秘話(9)
いよいよ2021年7月、「TOKYO 2020 オリンピック競技大会」が開催されます。
今大会から正式種目として復活した「野球・ソフトボール」のメイン会場として、神奈川県横浜市の「横浜スタジアム(ハマスタ)」が使用されます。
”真夏”の”東京”オリンピックですから、屋根の付いた「東京ドーム」や、周辺に競技施設が多い「明治神宮球場」が使用されるのが自然とも思えますね。
しかし、「東京ドーム」は警備上の問題で、「神宮球場」はオリンピックの補助施設として使用するため、候補からは外れてしまいました。
それでは、なぜ「ハマスタ」なのか?
「横浜スタジアム」の建つ土地と「日本野球」との繋がりを掘り下げていくと、今年オリンピックが行われるのも必然と感じられる”何か”を見いだすことが出来ます。
今回は、そんなお話です。
当ブログでは「日本プロ野球」の知られざる歴史を不定期で連載しています。
これまでのお話は以下からどうぞ。
横浜市中区「横浜公園」
JR京浜東北線(根岸線)の関内駅を出てすぐ、「横浜スタジアム(通称:ハマスタ)」が建つ「横浜公園」あります。
この土地は横浜開港(1859年)のころ、外国人居留地の中にあり外国人用の「港崎(みよざき)遊郭」となっていました。
近隣の宿場にあった大きな遊郭の支店(?)が進出しており、15軒ほどが軒を連ねていたそうです。
1866年11月、料理店から発生した火災は瞬く間に広がり、「港崎遊郭」を含む木造建築の居留地を焼き尽くしました。
居留地再建を進める中で、遊郭の跡地に洋式公園を設ける事が外国側から要望として出され、明治になってから、本格的に建設が始まります。
1876年(明9)、2年に渡る工事の末、横浜で2番目の洋式公園として完成。
外国人(彼ら)だけではなく日本人(我ら)も利用できることから、当時は「彼我(ひが)公園」と呼ばれていました。
園内の中心には、クリケットや野球の出来る芝生のグラウンドとクラブハウスが作られましたが、こちらは外国人専用の施設となっていました。
以降、この「横浜(彼我)公園」から、「日本野球の歴史」に刻まれる幾多の出来事が生まれていく事となります。
快挙!一高野球部!
アメリカ人宣教師「ホーレス・ウィルソン」が、第一番中学校( 現:東京大学の前身のひとつ)に赴任し、生徒たちに野球を教えたのが1872年(明5)の事です。(諸説あり)
これを日本野球の始まりとして、クラブチームや学校の野球部が次々に生まれていきます。
明治の中頃になると、猛練習で実力をつけた第一高等学校(一高:これも東京大学の前身)は、他を寄せ付けない強さを発揮し、東都の球界に君臨していました。
そんな「一高」と、「横浜公園」のグラウンドで活動していた、YC&AC(Yokohama Cricket and Athletic Club)所属の駐日アメリカ人チーム(以下 外国人チーム)の試合が行われます。
1896年(明29)5月23日 午後3時、場所は「横浜公園」のグラウンド。
日本野球初の国際試合は、約400人の応援団が見守る中、この場所で始まりました。
この記念すべき試合は、「一高」がエース「青井鉞男(あおい よきお)」のピッチングが冴えわたり、外国人チームの失策も手伝って、29対4の大差をもって勝利しました。
この勝利は、欧米列強に追いつこうとしていた当時の日本国民にとって、大きな喜びとなったことでしょう。
学生相手に思わぬ大敗を喫した外国人チームは再戦を要請。
6月5日に同じ「横浜公園」グラウンドで、第2戦が行われる事となりました。
当日、横浜入りした「一高」選手たちを横浜のファンは大歓迎し、ビールや菓子などを大量に差し入れたそうです。
第1戦快勝への興奮が伝わってきますね。
外国人チームは、横浜に寄港していた米軍艦の乗組員などで戦力を補強して試合に臨みましたが、「青井鉞男」の投球の前になすすべ無く、32対9で敗れました。
日本野球初の国際試合が行われたこの土地は、野球の「聖地」の一つである事は間違いないと思っています。
世界の人々が集い、競う「オリンピック」の「野球・ソフトボール」が開催されるにふさわしい場所だと言えるでしょう。
外国人チームはよっぽど悔しかったらしく、この後更なる戦力強化を図り「一高」に挑みました。
6月27日、今度は、わざわざ「一高」まで出向いて第3戦を行いましたが、22対6で敗戦してしまいます。
意地になった(?)外国人チームは、横浜にいる元プロ選手や野球の上手い選手をかき集め、7月4日に第4戦を要請し、14対12をもって雪辱を果たしています。
野球発祥の国=アメリカ国民として、負けられないという気持ちもわかりますね。
横浜公園とプロ野球
1923年(大12)9月に発生した「関東大震災」は、横浜にも大きな被害を出しました。
「横浜公園」も甚大な被害に見舞われ、その復興事業の一環として本格的な野球場の建設が計画されます。
約1万人を収容できるスタンドを備えたこの球場は「横浜公園球場」と名付けられ、1929年(昭4)3月、現在の「横浜スタジアム」と同じ場所に完成しました。
この球場がプロ野球と出会ったのは、開場から5年後の1934年(昭9)年11月18日の事です。
ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらを擁する「全米オールスター」と、沢村栄治ら日本球界の精鋭を集めた「全日本チーム」が対決する「日米親善試合」第9戦が「横浜公園球場」で行われました。
結果は、ルースやゲーリッグらの本塁打などで「全米オールスター」が21対4で勝利しています。
対戦相手の「全日本チーム」はこの日米野球が終わった後、プロ野球チームに移行する事があらかじめ決まっており、その冬に「大日本東京野球倶楽部」としてプロ活動を始めます。
このチームが後の「読売ジャイアンツ」となった事は、ご存知の方も多いでしょう。
この土地が、現在の「日本プロ野球」と早くから縁繋がりだった事がわかりますね。
1978年(昭53)、現在の「横浜スタジアム」が開場しました。
レフト・ライトのポールの根元には、それぞれ「ルース」と「ゲーリッグ」のレリーフが埋め込まれていた事を覚えています。
「日米親善野球」がこの土地で行われたことを、記念してのものです。
現在これらのレリーフは、スタンド下のコンコースに設置されています。
「ハマスタ」に行かれた際は、チェックしてみて下さい。
ナイター記念日
「横浜公園球場」は戦時中は軍の施設として利用され、終戦後は進駐軍の接収を受けます。
米軍によって照明塔を設置するなどの整備を受け、名称を「ルー・ゲーリッグ・メモリアル・スタジアム(ゲーリッグ球場)」とし、兵士たちのレクリエーション施設として利用されました。
終戦後、復活した日本プロ野球(日本野球連盟 現:NPB)は今後のナイターの研究のため、「ゲーリッグ球場」を借りて公式戦を行います。
1948年(昭23)8月17日、カードは「巨人」対「中日」。
薄暮でのボールの見にくさを避けるため、すっかり日が暮れた午後8時8分にプレイボールが掛かりました。
あくまでも兵士の慰安施設の照明でしたから、プロの試合には少々暗すぎたらしく(現在の1/10程度の明るさ)、いくつかのトラブルが起きました。
暗さに慣れない打者が投球を顔面に受け負傷退場、フェンス際のボールを審判が見失いエンタイトル・ツーベースをめぐる混乱があったり、練習で使用したボールが試合中に発見され外野手が驚くなど、選手達には不評であったそうです。
しかし、プロ野球初のナイトゲームは人々の関心を呼び、当日は約2万人を超える観客が詰めかけました。
収容できない観客のためにグラウンド内に特設席を作り、整理にあたった程だったと記録にあります。
この盛況を目の当たりにしたプロ野球関係者は、ナイターの興行的な魅力を確認した事でしょう。
戦後の資材不足が解消した頃から、各球場にナイター照明が設置されていきます。
試合は午後10時過ぎに終了し、3対2で「中日」が勝利しました。
この8月17日は「プロ野球ナイター記念日」とされています。
「平和球場」から「横浜スタジアム」へ
1952年(昭27)、サンフランシスコ講和条約により日本の主権が回復すると、「ゲーリッグ球場」は接収を解除され横浜市に返還されます。
来るべき「平和な時代」への期待をこめて、球場は「横浜公園平和球場」とその名を変えました。
私(管理人)は昔、横浜市に10年ほど住んでいた事があるのですが、この時代を知る地元の方は愛着を込めて「平和球場」と呼んでいた事を覚えています。
「平和球場」は、神奈川県野球のメッカとして高校野球の予選や、社会人野球などで盛んに利用されました。
特に地元の「横浜高」と「横浜商業」の対戦は「ハマの早慶戦」として、現在と同様に多くの観客を集めました。
プロ野球の公式戦は、戦前から1967年(昭42)までの間に65試合とあまり多くありませんが、「読売ジャイアンツ」の2軍チームが本拠地として使用していた時期もあり、それなりの存在感を維持していたようです。
ハマの野球ファンに愛された「平和球場」ですが、1970年代になると老朽化が進み、スタンドの上部への立ち入りが禁止されるような状態となります。
市民から建て替え要請の声が出され、18万人を超える署名が集められました。
当時の「飛鳥田一雄(あすかた いちお)」横浜市長は、新たな街づくりの一環として「横浜公園に新しいスタジアムをつくり、そこにプロ野球チームを誘致する」という計画を進め、川崎を本拠地としていた「大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)」を移転させることに成功します。
地元の青年会議所が中心となった新球場会社「株式会社横浜スタジアム」の資本金集めには、大企業だけではなく個人や地元の中小企業も積極的に協力し、2週間で目標額の20億円に達したそうです。
明治時代から「ベースボール」に触れて来た、横浜市民の「野球愛」がよくわかりますね。
こうして動き出した「平和球場」の建て替えですが、国有地である「横浜公園」での建設許可や、建ぺい率の問題、園内の米軍施設(チャペルセンター)と県立武道館の移転など課題は山積みでした。
これらの問題を解決するため、飛鳥田市長を先頭に関係者は各所と折衝、交渉、調整を重ね、ついに1977年(昭52)4月、工事が開始されました。
プロ野球開幕に間に合わせるため、11社のJV(共同事業)となった解体・建設工事は突貫体制でおこなわれ、約1年間という短期間で完成します。
1978年(昭53)4月4日。
野球だけではなく各種スポーツやイベントが開催可能な、日本初の多目的スタジアムとして「横浜スタジアム」が開場しました。
こけら落としとなった当日の「横浜大洋ホエールズ」対「読売ジャイアンツ」戦に先立ち、この時には市長を退任していた「飛鳥田一雄」が始球式をつとめ、「横浜公園」の新たな野球の歴史をスタートさせました。
1971年の東宝映画「刑事物語・兄弟の掟」というの作品の冒頭、主演の田中邦衛が乗る京浜東北線の車窓から見た「横浜公園平和球場」の全景が写っています。
初ナイターが行われた際の照明塔は米軍のものだったので撤去されていて、この映像では確認できません。
晩年の「平和球場」の姿が記録された貴重な映像だと思われます。
”若大将”加山雄三も出演してます。
「横浜スタジアム」と「日本野球」の”案外”深くて長いつながりが、おわかり頂けたでしょうか?
この夏、この土地で開催される「オリンピック」では、どんな熱戦が繰り広げられるのか?
今からワクワクしながら待ちたいと思います。
頑張れ!侍ジャパン!!
頑張れ!ソフトジャパン!!
2021年8月7日 追記
「ハマスタ」のオリンピックで、「野球」「ソフトボール」共に金メダルを獲得しましたね!!
「日本野球」と「横浜公園」の歴史に、新たなページが加えられることとなりました。
選手の皆さん。
おめでとうございます!
野球・ソフトボールファンの皆さん。
良かったですね!
参考文献
『横浜スタジアム物語』山下誠通(著) かなしん出版 1994年
『真説 日本野球史 明治編』大和球士(著) ベースボール・マガジン社 1977年
『都市ヨコハマをつくる 実践的まちづくり手法』田村明(著) 中公新書 1983年
『和をもって日本となす 』ロバート・ホワイティング(著) 玉木正之(訳) 角川書店 1990年
『日本野球史 (ミュージアム図書復刊シリーズ)』 国民新聞社運動部(編)ミュージアム図書 2000年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』
http://www.baseball-museum.or.jp/
『日本野球機構 公式ホームページ』
https://npb.jp/
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