プロ野球「1番」づくしの男って?
- 2021.09.24
- プロ野球史 野球史
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日本プロ野球歴史秘話(10)
プロ野球で「1」といえば・・・
王 貞治、鈴木啓志、若松 勉ら背番号「1番」のレジェンド選手、HR王や最多勝などのランキング「1位」、俊足好打の「1番」打者、期待の新人ドラフト「1位」...
皆さんそれぞれイメージされると思います。
「日本プロ野球」の歴史の中に、目立たないけれど「1番」の中の「1番始め=プロ野球初」に愛された男がいました。
今回は、そんなお話です。
当ブログでは「日本プロ野球」の知られざる歴史を不定期で連載しています。
これまでのお話は以下からどうぞ。
プロ野球最初の試合
今回のお話の主役は「島 秀之助(しま ひでのすけ)」という人物です。
甲子園や東京六大学、社会人で活躍した後、先輩である「二出川延明(にでがわ のぶあき)」の誘いによって、1935年(昭10)1月に結成されたプロ野球「名古屋金鯱軍」に主将兼外野手として入団しました。
背番号は「1」。
島とプロ野球の「1番」の長い付き合いのスタートです。
1936年(昭11)2月9日、名古屋市の鳴海球場で、第2回アメリカ遠征に向かう「東京巨人軍」の壮行試合として「名古屋金鯱軍」との試合が行われました。
この試合は公式戦ではないものの、現在のNPBにつながる「プロ野球の初試合」となります。
また「金鯱軍」にとってもチームの初試合です。
島は、この記念すべきゲームに「1番センター」として出場し、1回表に打席に立ち「巨人軍」の「青芝憲一(あおしば けんいち)」投手の投じた初球を打ち、ショートゴロに倒れています。
つまり「プロ野球」「チーム」1番目の試合に、背番号「1番」を付け、「1番打者」として「第1球」を打ち「プロ野球初」のアウトになっているんですね。
これだけ揃うと見事です。
試合は10対3で「金鯱軍」が勝利。
島の打撃成績は「1打数無安打、1四死球、1犠打」でした。
この試合の模様は、NHKが中京圏内のみですが実況中継を行っており、「ラジオ放送された最初のプロ野球試合」(諸説あり)としても記録されています。
「1番」づくしの島にはこんなエピソードもあります。
1936年11月、東京の洲崎球場で行われた「大東京」対「金鯱」戦の終盤、本塁でのクロスプレーをめぐって、3塁コーチだった島が、球審に猛抗議のあげく暴言を吐き「退場」を宣告されています。
プロ野球で第2号の退場者に当たりますが、これには少々微妙な部分があります。
というのは「退場第1号」とされる苅田久徳(かりた ひさのり)が判定を不服として小突いた審判に「無礼者!下がれ!」と言われ、それを自分で「退場」と勝手に解釈し「退場」グラウンドから出て行ったいう、該当審判(二出川)の証言があるからです。
それによると、正式に「退場」の宣告を受けたのは、島が「第1号」と呼べるかも知れません。
しかし、記録上は苅田が「第1号」とされていますので、ちょっと惜しかったですね。
洲崎球場のベンチ裏は出てすぐ道路になっていて、「退場」になったものの居場所の無くなった島は、ベンチの端っこで試合が終わるまで無言で座っていたそうです。
審判員 島秀之助
1937年(昭12)、首脳陣の退団をうけ選手兼監督となった島は、秋のシーズンに盗塁王(22個)を獲得する活躍を見せましたが、入団後痛めた肩が回復せず、この年一杯をもって現役を引退します。
僅か、2シーズンの選手生活でした。
引退を決めた島の元へ、再び先輩の二出川が手を差し伸べます。
前年にプロ野球の審判員に転向していた二出川は、自身が勧誘し入団させた後輩の将来を心配しての事もあったのでしょう、「一緒にやろう」と声を掛けます。
これを快諾した島は、これ以降審判員としてプロ野球の「1番」に関わっていくことになります。
島の審判員としての公式戦デビューは1938年(昭13)4月29日、イーグルス対セネタース戦。
1塁審判を担当しました。
「名審判:島 秀之助」の誕生です。
戦時体制~世界で「1番」長い延長戦~
島が審判員としてのキャリアを始めたころは、日本が戦時体制へと向かっていった時期と重なります。
敵国のスポーツである「野球」は敵愾視(てきがいし)され、学生や社会人の大会は中止に追い込まれていきました。
プロ野球連盟はその存在を守るために、入場料を軍に寄付する大会を行ったり、試合前に選手たちによる手榴弾投げのアトラクションをしたり、選手に戦闘帽を着用させるなど数々の努力を続けました。
いよいよ開戦が近づいた1940年(昭15)9月、時局に合わせ連盟は野球用語の日本語化を決定。
審判員となった島もこの変更に大いに戸惑ったようで、後年の著書の中で、クロスプレーの際とっさに「アウト!」と叫んでしまい慌てて「退け!退け!」と言い直したり、選手に「タイムは何と言いますか?」と聞かれ「停止だよ」と答えたりしたエピソードを書いています。
それまで、普通に「ストライク・ボール」「アウト・セーフ」と言っていた用語が、突然日本語に変更された事による選手・審判の混乱が伝わってきますね。
そんな時代、連盟の「敢闘精神」というモットーから生まれたのが「延長28回」という「世界で一番長いプロ野球の延長戦(当時)」です。
1942年(昭17)5月24日、後楽園球場で行われた「大洋(後の大洋ホエールズとは無関係)」対「名古屋」戦。
この試合で主審を務めたのが、島です。
名古屋の2点リードで迎えた9回ウラに同点2ラン本塁打が飛び出し、試合は延長戦に突入します。
大洋・野口二郎(のぐち じろう)、名古屋・西沢道夫(にしざわ みちお)、両投手の奮闘で、無得点のイニングが延々と続きました。
当時の大リーグ記録である26回を迎える頃には、新記録達成を意識した選手たちから「あと1回、続けてくれ。将来、孫に自慢するんだ」という声があがったという話も伝わっています。
14時40分に開始されたこの試合ですが、「延長28回を終えた時点では、まだ陽が高くあと2、3回は続けられた」と島は後年語っていますが、試合後に表彰式を行う都合からそこで打ち切りとなりました。
試合時間は3時間47分でした。
両軍の総投球数は655球。
つまり島は、その回数だけ中腰の姿勢をとり続けたという事になりますね。
腰、痛かったろうなぁ。
かくして島は「一番」長い延長戦をさばいた審判として、球史にその名を残す事になりました。
この「延長28回」は現在もプロ野球の最長記録となっています。
アメリカのプロ野球記録としては、1920年のブルックリン・ドジャース(ロビンス)対アトランタ・ブレーブス戦の延長26回が最長です。
マイナーリーグでは、1981年に延長33回の試合がありました。
これは32回まで続いた試合がサスペンデッドゲームとなり、翌日の1回を含めた数字になります。
解釈は色々ありましょうが、日米のメジャーリーグの最長はこの試合の「延長28回」だと、私(管理人)は認識してます。
セントラル・リーグへ
1944年(昭19)、厳しくなる国内事情を鑑み、その年のシーズンをもって休止を余儀なくされたプロ野球でしたが、翌年、戦争が終わると早速プロ野球の再建の動きが始まり、1946年(昭21)からシーズンが再開されました。
休止中、軍需工場に勤務していた島は、プロ野球再開と同時に審判員に復帰します。
1950年(昭25)年、プロ野球が2リーグに分裂した際は、島は「セントラル・リーグ」に、二出川は「パシフィック・リーグ」に所属し、それぞれの審判部長を務めます。
この年の秋、プロ野球初の日本シリーズ(当時の名称は『日本ワールドシリーズ』)が、「松竹ロビンス」と「毎日オリオンズ」との間で行われました。
この記念すべき第一戦の主審を務めたのが、島です。
試合に先立ち行われた始球式は、戦前から日米野球の橋渡しに尽力した「フランク(レフティ) オドール」が投手、戦後の野球復活に協力を惜しまなかった、GHQ経済科学局長「ウィリアム マッカート」少将が捕手、ヤンキースのスーパースター「ジョー ディマジオ」が打者を務めるという、占領下を象徴するものになりました。
始球式の模様を撮影した写真に、マウンドからそれを見守る島の姿が記録されています。
戦争を挟んで、「プロ野球初」と島は再びめぐり逢いました。
次いでの「プロ野球初」は翌1951年(昭26)のオールスター戦です。
リーグ分裂はハッキリ言ってケンカ別れのようなもので、そんな事情から前年はオールスター戦が行われず、各リーグが独自に「東西対抗戦」を行っていたような状況でしたが、この年からコミッショナー制が採られ、オールスター戦の開催が可能になりました。
出場した選手たちは、リーグ分裂時のわだかまりなどもあり、対抗意識丸出しで戦ったそうです。
現在のお祭り然とした雰囲気からは、想像できない時代だったんですね。
この第一戦の球審も島です。
これ以降しばらくの間「日本シリーズ」では、「セ」の島と「パ」の二出川が交互に主審を担当する事が続きます。
この両審判が、日本プロ野球を代表する存在であったという証明ですね。
そして1959年(昭34)6月25日、ハイライトがやって来ます。
天皇皇后両陛下を後楽園球場にお迎えして行われた、「読売ジャイアンツ」対「阪神タイガース」戦です。
いわゆる「天覧試合」として有名なこの試合は、「プロ野球初」だけではなく「プロ野球唯一(2021年現在)」のものです。
当初、この試合の主審は島の担当ではなかったのですが、リーグ会長の「審判団もベストな布陣で」という強い要望で急遽マスクを被る事になりました。
いつもとは違う緊張感の中、整列した選手たちに島は「両陛下に対し最敬礼!」と号令を掛けた後、「プレイボール」を宣言しました。
島はこの試合を振り返って「試合が始まると両陛下の存在を忘れ、無我の境地で普段通りのジャッジを行った。長嶋のサヨナラホームランで試合が終わった時、はじめて両陛下の存在を思い出した。」と語っています。
正に「ザ・プロフェッショナル」ですね。
でも、すごく疲れたんだろうなぁ…。
島はこの試合の関係者に配られた「恩賜の煙草」を長く大切にとって置いたそうです。
島 秀之助は1962年(昭37)をもって現役から退き、審判部長のまま1980年(昭55)まで後進の指導にあたりました。
その後、1995年(平7)に87才で亡くなるまで、日本野球規則委員として長く日本野球に貢献しました。
1989年(平元)に、野球殿堂入り(競技者表彰)しています。
現役中の島は「審判員の命」ともいえる「眼」を守るため、深酒を控え、眼や体を疲労させる映画鑑賞や麻雀は一切断っていたそうです。
この自分を厳しく律する姿勢が周囲の信頼を得、「プロ野球の1番」に愛され続けた理由ではないでしょうか?
グランドから冷静に昭和のプロ野球を見つめ続けた「島 秀之助」。
「1番づくしの男」として、覚えておきたい野球人のひとりです。
参考文献
『プロ野球審判の眼』島 秀之助(著) 岩波新書 1986年
『 プロ野球70年史 歴史編』ベースボールマガジン社 2004年
『プロ野球史再発掘 6 』関 三穂(編) ベースボールマガジン社 1987年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』
http://www.baseball-museum.or.jp/
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