国民リーグって知ってますか? 番外編
- 2021.12.09
- プロ野球史 野球史
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日本プロ野球歴史秘話(12)/『宇高旋風』再び
1947年(昭22)、忽然(こつぜん)と現れ、そして消えて行った「国民リーグ」。
リーグの創設者 宇高 勲(うだか いさお)は、自身のチーム作りのため、日本野球連盟(現NPB)の選手を次々にスカウトし、その強引ともいえる手腕は「宇高旋風」と呼ばれ球界に波乱を巻き起こしました。
そんな宇高でしたが、最初のシーズンの最中に起きたさまざまなトラブルにより、国民リーグから身を引きます。
その後、本業の再建に奮闘していた彼に、思わぬところから声が掛かりました...
今回は、そんな場面から始まるお話です。
国民リーグの誕生から終焉までの物語は、「国民リーグって知ってますか? 前・中・後編」でどうぞ!
昭和24年 初冬
東京・有楽町。
宇高 勲が社長を務める宇高産業を、ある人物が訪れました。
その男は宇高に「四対四になった」と伝えます。
「四対四とはどういう意味ですか?」
「リーグが2つに割れたんだ」
この年の春、プロ野球コミッショナーに就任した 正力松太郎 が発表した、いわゆる「正力構想」の中に「現行8チームである球団を2チーム増やし、将来的には12球団による2リーグ制を目指す」というものがありました。
その流れの中で、ある球団の新規参入をめぐり、現行チームが賛成・反対の対立で「四対四」に分かれ、それぞれが新リーグを設立する事態となっていました。
これが、現在の”セ・リーグ”と”パ・リーグ”です。
訪ねてきた男は、巨人軍を経営する 読売新聞社副社長 安田庄司 の使者でした。
自陣営リーグの球団を増やしたい安田は、業務提携をしていた西日本新聞社を勧誘し、球団設立を決意させました。
それに伴う選手集めを、過去に選手を集めて国民リーグを創り、解散後もその人脈を生かしてプロ野球に選手を送り込んでいた宇高に任せようというのです。
最初は、自社の再建のため固辞していた宇高でしたが、数回にわたる安田との会談で説得され、西日本球団のために動くことと決意しました。
第二の「宇高旋風」の始まりです。
吹き荒れる旋風
この時代のプロ野球には、現在の野球協約や統一契約書といったものが整備されておらず、正に戦国時代の様を呈していました。
選手の引き抜きや、勝手な移籍などを禁止する”申し合わせ”程度のものはありましたが、実際には球団を通さずに選手に直接誘いをかけ契約させるといった行為が当たり前になっていました。
特にこの年のオフは、球団が増える事によって選手の年俸相場が上がり、選手側も積極的に移籍を望むような状態でした。
12月27日、さっそく活動を開始した宇高は、手始めに敵対リーグの東急フライヤーズの選手に狙いをつけます。
そこには、自身が過去に世話をして入団させた選手がおり、その線で 清原初男 、森 弘太郎 、塚本博睦 などを引き抜くことに成功。
年が明けた1月2日には、大阪に飛びます。
阪急ブレーブスにいた元国民リーグの 宮崎 剛を獲りに行ったのですが、わずかの差で他球団との契約を終えていました。
残念がる宇高に対し、その代わりにと宮崎から紹介された 日比野 武、永利勇吉 両捕手のほか、偶然に駅で会った平井正明 を得意の交渉術で見事に獲得しました。
わずか10日足らずの早業。
時代が時代とはいえ、驚くほかありません。
再び吹き荒れた「宇高旋風」。
宇高の引き抜きによって、捕手がまったく居なくなってしまった阪急の監督 浜崎真二は、怒りの余りこう叫んだそうです。
「宇高は絞首刑だ!!」
これら、宇高が引き抜いた選手以外にも、巨人から供給された選手や元国民リーグの選手、社会人などを集め、西日本球団は旗揚げしました。
その名も「西日本パイレーツ」。
宇高の情熱と手腕が、生み出したチームです。
宇高 パ・リーグへ
1950年(昭25)のセ・リーグは既存の「巨人」「阪神」「中日」「松竹」と、新規加入の「西日本」「広島」「大洋」「国鉄」の8球団で始まりました。
新規の4球団は多少プロ選手の加入はあったものの、社会人や大学などのアマチュア出身者が中心となった選手構成で、戦力的に見劣りすることは否めません。
シーズンが進むにつれ、その戦力差は顕著になり、新規球団は全て順位表の下位に沈むことになりました。
現在のプロ野球の入場料はホームチームの収益となっていますが、この時代は試合ごとに決められたギャラを、勝者と敗者がそれぞれ6:4の割合で分けるというものでした。
この方法だと、人気のないチームとの試合のギャラは、当然低く抑えられてしまいます。
このため、特に動員者数の少ない 西日本と広島*1 を排斥しようとする流れが、リーグ内で起こりました。
シーズンが終わるとこの流れはますます露骨となり、読売新聞が元旦のトップ記事にまだ決定していない 西日本と広島 の解散を報じたり、勝手にこの2球団の選手と移籍交渉をしたり、正式な手続きを経た選手の西日本への移籍を妨害したり、リーグ首脳が強硬に解散を球団に持ちかけたりと、かなり酷い事態となります。
リーグ作って参加球団を募ったあげくに、一年で切り捨てるなんてねぇ…
まだまだ貧しい占領下の時代を考慮しても「そりゃないだろ」って感じです。
今の時代、これをやったら確実に大炎上案件ですね。
度重なる迫害に耐えかねた西日本は1月30日にセ・リーグからの脱退を宣言、その翌日、同じ福岡を本拠とするパ・リーグの西鉄クリッパーズとの合併を発表します。
宇高が奔走し作り上げたチーム 西日本パイレーツ は、わずか1年で消滅することになりました。
これを受けセ・リーグは 西日本のリーグ除名を発表、球団の選手保有権はセ・リーグにあるとし、猛烈に選手への勧誘を始めます。
が、ここでも宇高の手腕が発揮されました。
宇高は選手たちをまとめて秘密の場所に隠し、引き抜きを防ぎます。
これが功を奏し、選手たちを無事 西鉄 に合流させることに成功しました*2。
引き抜きの裏の裏まで知り尽くした、宇高の勝利です。
(ま、自分がやられたら困ることを、やっただけとも言えますがw)
宇高は選手たちと共に、西鉄ライオンズと改称したチームに、スカウトとして移籍。
この後も宇高は、球界を揺るがす大騒動で活躍することとなります。
注釈
(*1)「広島」のその後
リーグのターゲットとなった、もうひとつの球団「広島カープ」は、「大洋ホエールズ」との合併寸前まで追い込まれましたが、
監督の石本秀一を中心として選手が団結し、次年度以降の存続を決意。
紆余曲折の後、合併は回避されました。
地元・広島市民による後援会の設立や、たる募金も有名なエピソードですね。
現在まで続く、市民球団たるカープの原点です。
(*2)
西鉄に行かなかった選手には、主力打者の 南村不可止 と正遊撃手の 平井正明 がいます。
二人は、かなり早いうちから巨人に声をかけられ契約をしていたため、宇高が手を打った頃にはすでに手遅れでした。
この2名以外の選手は、西鉄の移籍しています。
御用だ。観念しろ!
1951年(昭26)オフ、東急フライヤーズの看板選手 大下 弘 が、球団との感情のもつれや金銭問題で、退団の意思を表しました。
巨人の川上哲治と共に、戦後の野球ブームをけん引したホームランバッターの移籍希望に、各球団は色めき立ち争奪戦が始まります。
いわゆる「大下騒動」の始まりです。
宇高は夏ごろに大下本人から退団の意思を聞いており、西鉄球団に伝えていましたが本気とされず、争奪戦に加わるのが年明けまで遅れました。
しかし西鉄は、他球団が大下個人と話を進めるのとは対照的に、東急との交渉をするという正攻法で臨みます。
これによって 東急の大下と西鉄の緒方俊明および深見安博、プラス金銭のトレードが成立しました。
球団同士の合意はこれで成立しましたが、大下本人がこのトレードを拒否し、姿をくらませてしまいます。
これに加え競合球団の策略と代理人と呼ばれる人物の暗躍が、事態をさらに複雑にすることとなりました。
とにもかくにも、本人を捕まえて交渉の場に連れてこなければ事態は解決できません。
宇高は、同僚のスカウトと共に大下捜索を開始します。
経験で培ったカンと築き上げた人間関係からのツテを使い、雪深い秋田で一度は大下を見つけましたが、逃げられてしまう事もありました。
東急首脳の間では、大下の度重なる失踪や、交渉を避ける誠実とはいえない態度を球団として重く受け止めていて、リーグへの提訴の後失格選手として球界から追放することも俎上に登るほど、問題は大きくなりつつあります。
宇高にとっての大下は、プロ野球のスターであり、また大学のかわいい後輩でもあり、そんな事態は避けなければなりません。
日に夜を継ぐ捜索と張り込みで、ついに大下が知人宅に入っていくのを確認します。
宇高は、その家に無断でずかずかと上がり込むと、勢い良く居間のふすまを開けました。
驚く大下に、宇高はこう言い放ちます。
「弘。御用だ。観念しろ!」
こうして4か月に渡り波乱を呼び、大臣までが関与したといわれる「大下騒動」は終わりました。
宇高のスカウトとしての意地と執念が、結果的には”大スター 大下 弘”を救ったことになります。
宇高は、この後も西鉄ライオンズに多くの選手を入団させ、大下をはじめ、中西太、豊田康光、稲尾和久らを中心とした「野武士軍団」の礎をつくり、球界きっての敏腕スカウトとして名を馳せました。
1966年(昭41)年には、国鉄スワローズに移籍。
経営が変わったサンケイアトムズでは、オーナー顧問として定年まで球界に携わりました。
スカウトという地味な職業もあって、宇高の名がプロ野球史で取り上げられることは多くありません。
しかし、戦後の日本プロ野球に深く関わり、歴史を動かした一人であることは間違いないと思います。
自分のリーグを立ち上げ、新球団設立に協力し選手を守り、球界を揺るがす騒動に終止符を打つ。
野球好きの私(管理人)から見ても、うらやましい野球人生です。
宇高 勲。
覚えておきたい野球人のひとりといえるでしょう。
参考文献
『プロ野球70年史 歴史編』ベースボールマガジン社 2004年
『別冊1億人の昭和史 日本プロ野球史』毎日新聞社 1980年
『プロ野球史再発掘 1~7』関三穂(編)ベースボールマガジン社 1987年
『魔術師 決定版―三原脩と西鉄ライオンズ』
立石泰則 (著) 小学館 2002年
『大下弘 虹の生涯』辺見じゅん(著) 新潮社 1992年
『消えた球団 1950年の西日本パイレーツ』塩田芳久(著)ビジネス社 2021年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』
http://www.baseball-museum.or.jp/
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