桐のバット/黎明(れいめい)期の日本野球
- 2022.04.22
- 野球史 雑学
- サッカー, ホーレス・ウィルソン, 国産ボール, 平岡凞, 徳川ヘラクレス倶楽部, 徳川達孝, 新橋アスレチック倶楽部, 明治の野球, 明治時代の野球, 桐のバット, 熊本洋学校, 田安家, 第一番中学校, 野球伝来150年, 開成学校, 開拓使仮学校
野球伝来150年:明治時代の野球あれこれ
今年(2022年)は、わが国に「野球」が伝わって150年目に当たります。
以来、日本にすっかり定着した「野球」ですが、その黎明期には興味深いエピソードがたくさんありました。
今回は、その中からいくつか選んでご紹介したいと思います。
現在とは違った「明治の野球」とは、どんな感じだったのでしょう?
今回は、そんなお話です。
明治5年?6年?
明治5年(1872年)、東京・神田にあった第一番中学校(現:東京大学の前身のひとつ)に赴任した、アメリカ人教師「ホーレス・ウィルソン」が生徒たちに「ベースボール」を教えたのが日本野球のはじまりです。
今年(2022年)が「野球伝来150年」というのはここから来ています。
しかし、今から40年位前までは「日本野球のはじまりは明治6年(以下:明治6年説)」と記述された書物が多くあったんです。
例えば私(管理人)は持っている書籍でも、昭和4年に発行された「日本野球史(発行:国民新聞社)」や昭和45年発行の「野球百年(発行:時事通信社/著:大和球士)」の中で、明治6年説を採っています。
このように「明治6年説」は、結構長い間主流だったといえます。
私(管理人)も子供の頃は、そう思っていました。
それでは、なぜ近年は「日本野球のはじまりは明治5年(以下:明治5年説)」となったのでしょうか?
これには、第一番中学の校庭の広さに関係がありました。
ウィルソンが生徒たちに教え始めた頃は、ノックで打ったボールを生徒たちが代わるがわるキャッチするといった「遊び」に近いものでした。
校庭も試合ができる程は広くはなく、参加した生徒の数も少なかったそうです。
明治6年(1873年)第一番中学は開成学校と名称を変更し、校庭も広いものが整備されました。
これに伴い野球に参加する生徒も増え、技量も上がり攻守に分かれて試合も行われるようになりました。
つまり「明治5年説」と「明治6年説」の違いは、日本人に「野球が伝わった」年と、日本人が「野球をプレイ」した年のどちらを「はじめて」としているかという事になります。
昔は「野球をプレイ」した事に重点が置かれた解釈だったものが、近年では「野球が伝わった」ことが重視され「明治5年説」が正史となったと思われます。
(種子島の鉄砲伝来みたいな感じかなと… これは「伝わった」が起点ですね)
年号だけでなく「日本野球のはじまり」の場所にも諸説あるんです。
この第一番中学と、同時期に東京・芝にあった「開拓使仮学校(現:北海道大学)」が先だという説。
はたまた、明治4年の「熊本洋学校」が発祥ではないかなど。
これら共通しているのは、アメリカ人のお雇い外国人から「ベースボール」が日本人に伝わったという事です。
このようなケースは学校だけではなく、色々なケース(職場など)考えられますから、隠れた歴史が存在しているかもしれませんね。
いつか新しい史実が発掘されるかも…
もちろん、現段階では「明治5年・第一番中学説」が資料や証言の多さで、これが正史だと思っています。
ボール確保にも一苦労
明治初期の日本に「野球用品」はほとんどありませんでした。
あるものと言えば、外国人教師や帰国した留学生が持ち込んだ僅かなボールとバットだけ。
熱心にプレイすればする程、それらもすぐに底を尽きます。
バットについては木工の得意なわが国のことですから、何とかなったでしょう。
しかし、ボールはそういう訳にはいきません。
学生たちは破れたボールを大事に修理しつつプレイをしていましたが、それにも限界があります。
開成学校の生徒たちの苦労も同様でした。
ある日、自分たちで作れないものかとボールの解体・分析を行います。
表面の牛皮の下に、数枚の羅紗(毛織物)ついで毛糸、ゴム玉...
当時のゴムは貴重なものでしたが、これは靴の底を切り取って確保。
毛糸は履いていた靴下をほどいて巻き付けました。
古い羅紗を手に入れたところまでは順調でしたが、皮の縫い付けだけはどうにもなりません。
そこで学校の近くの靴屋に縫製を頼み、なんとかボールは完成しました。
「国産野球ボール第一号」の誕生です。
アメリカ製のものと比べ、まだまだといった出来栄えでしたが、これ以降周辺の靴屋を中心に国産ボールの販売が広がり、ボール不足は解消に向かいました。
また、キャッチャーの防具の入手にも一苦労がありました。
マスク、プロテクター。
とにかく現物がありません。
なにか代用できるものをと探した結果、剣道の防具にたどり着きました。
「面」の横棒を数本抜きマスクとして改造。
これは上手くいったようです。
プロテクターは「胴」を試してみましたが、さすがにこれは動きづらく不採用となりました。
バッターの後ろに「剣士」がいる様子。
想像するとなんか楽しいですね。
この他にも、開成学校の野球を見物して自分でもやろうと思った他校の生徒が、ボールの構造を知らず鉛球に皮を巻きプレイして骨折したり(無茶するなー)、マスクをしない学生にアメリカ人が注意すると「日本人にはそんな軟弱なものは必要ない!」と言い返したり(おいー!)、袴姿の内野手が「袴」でゴロの勢いをとめて捕球したりと結構ワイルドな逸話がたくさん残っています。
なんにせよ、先駆者たちの熱意と苦労には頭が下がりますね。
明治の中頃になると野球用品の輸入や国産品の数も増え、こんな事も無くなっていったようです。
もしかしたら「サッカー」が?
アメリカ人から伝り、学生を中心に広がっていった「野球」。
そんな風潮を面白く思わない人物がいました。
その名はMr.アーサー。
イギリス人で貿易商の彼は、野球に熱中する学生に詰め寄ります。
「なぜ君等は歴史の浅いアメリカの競技をするのか?!」
「欧米の文化を知りたいのなら、歴史あるフットボール(サッカー)をするべきだ!」
「フットボールはヨーロッパ各国でやっている。野球はアメリカだけじゃないか!」
「もしくはわが国のクリケットでも良い」
いきなりこんな事を言われた学生たちも困ったでしょうね。
アーサー氏は各学校をまわり、フットボールの普及に奮闘します。
しかし、当時の日本人にとって見たこともない競技を勧められても何のことやらですから、反応は芳しくなかったようです。
そこでアーサー氏は仲間を集め実技を披露し、フットボールの素晴らしさを伝えようと数人の学生を横浜に招待します。
これにはイギリスやフランスの領事たちも加わり、かなり力の入ったプレゼンテーションとなりました。
しかしアーサー氏の手違いか、競技者が集まらずたったひとつのボールを蹴って見せる程度のデモンストレーションにしかなりませんでした。
その晩、領事館での晩餐会でこんな会話がありました。
アーサー「どうです?フットボールは面白そうでしょう」
学生たち「面白いかどうかわかりません」
アーサー「ボールを蹴ってゴールに入れるんです!」
学生たち「それが面白いんですか?」
アーサー「やってみれば楽しいですよ!」
学生たち「試合を見てみたいですね」
アーサー「それを見れば野球より面白いことがわかります!私たちがコーチしましょう!なんならクリケットも!」
学生たち「それでは一旦帰って、皆に相談してまた伺います」
結局、学生たちが再びアーサー氏の元へ来ることは無かったそうです。
もしもこの時、人数を集め首尾よくサッカーの試合が行われていたとしたら?
サッカーの魅力が伝わり、学生たちの気持ちを大きく揺さぶっていたとしたら?
「野球」の広がりと同様に「サッカー」も大いにプレイされる事になったかも知れません。
もしかしたら、「サッカー」の方が盛んになっていたかも・・・
Mr.アーサー。
残念でしたねぇ。
桐のバット
明治9年(1876年)アメリカで機関車の技術と「野球」を学び帰国した「平岡 凞(ひらおか ひろし)」は、工部省鉄道局(後の国鉄)に任官すると、明治11年に職場の仲間と野球チームを結成します。
「新橋アスレチック倶楽部(アスレチックス)」
日本最初の野球チームです。
新橋アスレチックスは、日本に最新のルールや技術、用具などをもたらし「学生の遊び」であった「野球」が、本格的なスポーツとして進化していく嚆矢(こうし)となりました。
日本の野球史に一時代を築いた存在といえるでしょう。
その平岡に影響され、野球を始めたひとりに田安家当主「徳川達孝(とくがわ さとたか)」がいます。
田安の殿様です。
達孝はかなり「野球」に入れ込んだようで、邸宅の日本庭園を壊し全面が芝生の専用グラウンドを造成すると同時に、自分のチームを作ります。
その名も「徳川ヘラクレス倶楽部」。
すげぇ強そうな名前ですね。
ユニホームも新橋アスレチックスの「白」に対抗して「緑」と「赤」の2種類。
紅白戦 ならぬ 紅緑戦 が可能なほど、選手も多く揃えました。
新橋アスレチックスとの試合の際には見物人を集めるため、宣伝をし観客を茶菓子でもてなすなど、その情熱はとどまることを知りません。
こだわりは道具についても同様でした。
ある時「檜(ひのき)のバット」を特注で作ったのですが、達孝には重すぎて満足に振れません。
そこで、出入りの大工に軽い「桐のバット」を作らせました。
これは柾目(まさめ)の入った逸品だったそうです。
喜んだ達孝はさっそく試し打ちをします。
結果はご想像通り、初球で真っ二つ...
殿様 そりゃ折れますって。
折れた「桐のバット」は、その後どうなったんでしょうね?
破片でも残っていたら「野球殿堂博物館」入りは間違いない「お宝」です。
今回は、わが国で「野球」が始まった頃のエピソードをいくつかご紹介しました。
当時の雰囲気がお伝え出来たならば幸いです。
この後の日本野球は学生を中心に全国的に広まり、その後のプロ野球の誕生へとつながっていきます。
その歴史には、興味深い出来事がたくさん散りばめられています。
これからも当ブログでは、日本野球史のあれこれをお伝えしていこうと思っております。
こちらの連載もよろしくです。
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「日本プロ野球歴史秘話」過去記事一覧
野球の歴史を覗いてみませんか?
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参考文献
『プロ野球70年史 歴史編』ベースボールマガジン社 2004年
『日本野球史 (ミュージアム図書復刊シリーズ)』
国民新聞社運動部(編)ミュージアム図書 2000年
『日本で初めてカーブを投げた男―道楽大尽 平岡凞の伝記物語』
鈴木 康允 ,酒井 堅次 (著)小学館 2000年
『野球の誕生-球場・球跡でたどる日本野球の歴史-』 小関順二(著)草思社文庫 2017年
『新説・日本野球史 明治編』 大和球士(著)ベースボールマガジン社 1977年
『野球百年』 大和球士(著)時事通信社 1970年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』
http://www.baseball-museum.or.jp/
『野球伝来150年 特設サイト』
https://japanesebaseball150th.jp/
桐のバット/黎明(れいめい)期の日本野球 (了)
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