巨人軍 初代背番号「3」

巨人軍 初代背番号「3」

日本プロ野球歴史秘話(13)

読売ジャイアンツの「3」番といえば「ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄」ですね。
オールドファンなら「猛牛・千葉 茂」、「初の三冠王・中島治康」を連想されるかも知れません。

これら球史を彩る名選手たちの前に、この「3」番を背負った選手がいました。
名前は、田部武雄。
俊足・好打・堅守、後に野球殿堂入りしているほどの名選手です。

しかし、彼の公式戦記録はありません。
リーグ戦開始前に、巨人軍から去っていたからです。
なぜ、そんな名選手が退団に至ったか?
田部武雄とはどんな選手だったのか?

今回はそんなお話です。


満州の天才選手

田部武雄は、1906年(明39)広島県袋町(現:広島市中央区)に生まれました。
幼少期から脚が速く、地元の少年野球チームで活躍したのち、1920年(大9)、県下野球強豪校の広陵中学(現:広陵高校)に入学します。

甲子園での活躍が期待された田部でしたが、わずか1年で学校を辞めています。
彼の野球人生を追っていくと、詳しくわからない出来事に多く出会うのですが、この退学に関しても家庭の事情、野球部への反感、有力者の暗躍など、私(管理人)が持っている資料にも諸説あり、はっきりとした理由はわかりません。

田部は兄を頼って満州の奉天へ渡ります。

満州には学生野球で活躍した選手が就職先とした企業が多くあり、レベルの高い野球事情となっていました。
特に、「大連実業」と「満州倶楽部」は満州だけにとどまらず日本全体でも屈指の強豪チームとして名をはせており、1927年(昭2)から始まった都市対抗野球では、第1回から第3回までこの2チームが優勝を独占していたほどです。

田部は奉天で働きながら地元のクラブチームで野球を続け、1924年(大13)大連実業に加わりました。
レベルの高い環境は、彼の才能を一気に開花させます。

ひとたび出塁すると2塁、3塁へと盗塁、次打者の内野ゴロで生還するスピード。
その俊足を生かした華麗な内野守備。
長打はないものの、鋭く野手の間を抜くシュアな打撃。
リリーフとして登板し、緩急を交え打者を幻惑する投球術。

野球センスの塊ともいえる田部は、瞬く間に大連実業のレギュラーをつかみ取りました。

満州へ遠征した大学野球部の関係者は、田部のプレイに魅せられこんな電報を内地に送っています。

満州に天才選手がいるー。

神宮の杜のイケメンの韋駄天

1927年(昭2)、田部は日本に戻ってきました。

大連実業の野球部に明治大学OBが多く在籍しており、その線で明治大学に入学するための資格を得るため、広陵中学の4年生に編入します。
その春には甲子園の選抜大会に出場。
決勝戦でランニングホームランを記録するなど、広陵の準優勝に貢献しました。

春の大会が終わり大学入学の資格を得た田部は、再び大連実業に戻りプレーを続けました。
これは、新たに設けられた年齢制限によって、夏の甲子園に出場出来なくなった事や、翌春の明治入学までブランクが出来てしまうことを避けたと考えられます。

明けて1928年(昭3)年、田部は明治大学に入学しました。

春の六大学リーグ初戦からショートのレギュラーとして出場した田部は、さっそく初安打・初盗塁を決め神宮球場を埋め尽くした大観衆を唸らせます。
ひとたび出塁するや2盗、3盗を成功させ内野ゴロでの生還はもちろん、時にはホームスチールまで決める田部の俊足は対戦相手を驚愕させ次のような合言葉が生まれました。

田部を塁に出すな」と。

田部の才能溢れるプレーは野球ファンを魅了し「神宮の韋駄天」というニックネームで呼ばれるようになります。

明大野球部コーチであり芸能界とも付き合いのあった小西得郎⋆1が、田部と初対面した時に「俳優希望の青年かと思った」と言うほどのイケメンであり、明大野球部の合宿に集まるファンのほとんどが彼が目当ての女性ファンであったそうです。
また、当時の人気女優や有名令嬢との交際も噂される程、華やかさを持った存在でもありました。

野球部のヨーロッパ遠征に加わり世界を見分したり、ルーゲーリッグやレフティグローブらが参加した第1回日米野球大会に出場するなど、スター選手として田部の大学時代は充実したものでした。

*1 小西得郎
創成期のプロ野球に身を投じ大東京(現在のDeNA、ロッテの前身のひとつ)など数球団の監督を務めました。
幅広い人脈を持ち、戦後のプロ野球復興や新球団の設立に寄与するなど「プロ野球の恩人」のひとりとして数えられています。
また、野球解説者としても「なんと申しましょうか~」のフレーズで有名です。

1971年(昭46)野球殿堂入り(特別表彰)。
いつか、この連載でもこの人の野球人生を取り上げたいと思っています。

大日本東京野球倶楽部

第1回日米野球大会の翌年(1932年・昭7)文部省は「野球ノ統制並施行ニ関スル件」、いわゆる「野球統制令」という訓令を出します。(昭和22年までこの訓令は残ります)
学生野球の健全な育成を目的としたもので、これにより学生はプロ野球との対戦が禁じられました。
確かに当時の学生野球は、小学生が長期の遠征に出たり、試合を興業として開催したり、選手の素行不良、学業の低下や過分な優遇など、とても良好とは言えない状態でしたから、この訓令は仕方がないとも思われます。

1934年(昭9)、第2回日米野球大会の開催が決まりますが、野球統制令を受け学生チームは出場できません。
主催する読売新聞社社長・正力松太郎は、かねてからプロ球団設立の構想を持っていた市岡忠男浅沼誉夫三宅大輔鈴木惣太郎らの提案を受け全日本チームを結成し、全米チームとの対戦相手とする決定を下します。

全日本チームは野球王・ベーブルース、鉄人・ルーゲーリッグらを中心とした全米チームとの16試合を終えると、そのままプロ球団「大日本東京野球俱楽部」として再スタートしました。
これが現在の「読売ジャイアンツ」のルーツです

創設メンバーの一人でチームの監督である三宅大輔はチームのさらなる強化のため、田部を九州まで訪ね入団を求めます。
この頃の田部は社会人野球に進んだ後、ある事情で野球から離れていましたが、わざわざ自分を探して訪ねてきた三宅に心を打たれチーム入りを決意しました。

明けて1935年(昭10)1月、田部は大日本東京野球倶楽部と契約。
背番号は『3』。

田部武雄のプロ野球人生が始まりました。

スピードスター”タビー”

プロ野球リーグ戦開始に向け、各球団が創立に奔走していた1935年(昭10)2月14日、大日本東京野球俱楽部は技術習得の武者修行のため、アメリカ遠征に旅立ちます。
その航海中、長すぎて電報の連絡上に不都合があるという理由でその名称を「東京ジャイアンツ(巨人軍)」に変更したチームは、2月28日サンフランシスコに到着しました。

田部のポジションは1番セカンド。
本来の守備位置であるショートには、守備職人である苅田久徳がいたためのコンバートです。
田部は大学時代「捕手以外はどこでも守れた」と言われたセンスの持ち主でしたから、特に問題はなかったでしょう。
大学時代から守備の評価が高かった田部・苅田の二遊間に、これまた堅守の三塁・水原茂が加わった布陣は、そのまま当時の日本最高の内野陣といっていいもので、試合前のシートノックでも観客をどよめかせたと伝えられています。

巨人軍は数日の調整ののち、3月2日初戦を迎えます。
対戦相手はパシフィック・コースト・リーグのサンフランシスコ・ミッションズ。
この試合で田部は四球で出塁するやいきなり盗塁を決め、その俊足を見せつけます。

以降の試合でも、元大リーガーやその候補生たちの強肩をものともせず盗塁を重ね、そのスピードは現地の観客を虜にしました。
前年の日米野球で、17歳ながらベーブルースやルーゲーリッグらの強力打線をわずか1点に抑え、渡米前から人気のあった沢村栄治が「スクールボーイ・サワムラ」と呼ばれていたのと同様に、グラウンドを風の如く駆け回る田部は「タビー」のニックネームが付くほどの人気選手となります。
田部が出塁するや、観客たちはこう叫んだそうです。
「ゴー!タビー‼」「ナイスラン!タビー!」

不慣れな環境、貧しい食事、連続する長距離移動。
厳しい遠征の中、田部は走・攻・守だけではなく、時には投手もこなすなど獅子奮迅の活躍を見せ、実に110試合で105盗塁、打率.267、安打数136、2本塁打の好記録をマークします。

「満州の天才選手」「神宮の韋駄天」は、野球の本場アメリカで「スピードスター・タビー」へと輝きを増しました。

追記
この遠征で巨人軍が身に着けたユニホームは少々変わっていて、背番号が「三」「十四」といった漢数字になっていました。
これはアメリカ側の要望という説と、現地の日系人に対するサービスだったという説があります。
しかし、ほとんどの観客に漢数字が読める訳は無く「あのプラス(十)とかマイナス(一)の選手はなんなんだ?」と聞かれて球団首脳が苦笑したというエピソードが残っています。

帰国後の混乱

アメリカ遠征を75勝33敗1分の好成績で終えた巨人軍は、7月16日帰国しました。

順調にチーム強化がなされているかのように見えた巨人軍でしたが、その内部では首脳陣と選手たちとの間で混乱が起きていました。

遠征中に選手を代表して強く待遇改善を求めていた苅田が、帰国後の病気をきっかけに解雇。
苅田と二遊間を組み、仲が良かった田部はこのあたりから首脳陣に対して不信感を持つようになりました。
また、帰国後行われた国内遠征の際、社会人チームに敗けた事の責任を取る形で監督の三宅が更迭されます。
自身を巨人軍に招いてくれた恩人ともいうべき存在の退団に、田部の不満は募っていきます。

チームプレイや精神面を信奉する新監督の浅沼は、職人肌の田部や水原ら大卒選手の個人プレーを厳しく叱咤したといわれています。
前任者の三宅は、選手の自主性に重きを置いた放任主義でしたから、この落差は大きいものだったことでしょう。
遂にはこれに不満を持ったほぼ全選手が、浅沼の退陣を求める連判状を球団に送付。
主将・田部と副主将・水原がオーナーの正力に直談判する事態にまで発展してしまいました。
正力は選手たちの言い分に理解を示したものの、人事の変更は出来ない旨を伝えます。
また、この行為のペナルティとして、田部と水原には活動停止の処分が下されました。

田部はそのまま巨人軍を辞めるつもりでしたが、仲介者の尽力によって翌年2月からの第2回アメリカ遠征を終えたあと、他球団に移籍するという条件でチームに復帰します。

田部の退団は決定的になりました

その後の田部武雄

1936年(昭11)、日本プロ野球の公式戦が始まりました。
そのメンバーに田部武雄の名前はありません。

第2回アメリカ遠征から帰った田部は当初の計画通り巨人軍を退団し、恩人の三宅が監督する阪急(現:オリックス)か明大時代の監督がいる金鯱軍(現:中日の前身のひとつ)へ移籍するつもりでしたが、チームが渡米している間に連盟の規則が変わり、退団者は球団の承認無しに移籍が出来ないことになっていました。
これは巨人軍が許可しない限り、田部は事実上どこにも移籍できない事を指します。
渡米前の約束がなぜ反故にされたのか?
なぜ巨人が田部をリリースしなかったのか?
憶測を含め資料によっては様々な解釈がありますが、その正確な理由ははっきりしません。

この後も田部は球界復帰のため様々な努力を続けますが、規則の壁に阻まれ叶いませんでした。

田部はその秋、満州へ戻り大連実業に復帰します。
満州の地で野球の楽しさを再確認した田部は、30台半ばを迎えながらも衰えぬ才能を発揮。
1940年(昭15)と1942年(昭17)の都市対抗野球大会に出場し、日本でそのプレーをファンに披露しました。
しかし、これがスピードスター・田部武雄の最後の輝きでした。

1944年(昭19)陸軍の招集を受けた田部は、翌年の沖縄戦で戦死しています。


今回は、巨人軍初代背番号「3」を背負った男・田部武雄のお話でした。

もしも、田部がプロ野球の公式戦に参加していたら?と想像することがあります。
歴史を語る上で「もしも」は禁句かもしれませんが、やはり「もしも」と考えてしまう程、魅力的な選手だと思っています。

プロ野球の創成期に強烈な光を放ち消えていった「スピードスター・タビー」。
覚えておきたい選手のひとりです。


参考文献
『プロ野球70年史 歴史編』ベースボールマガジン社 2004年
『別冊1億人の昭和史 日本プロ野球史』毎日新聞社 1980年
『プロ野球史再発掘 1~7』関 三穂(編)ベースボールマガジン社 1987年
『天才野球人 田部武雄』菊池清磨 (著) 彩流社 2013年
『プロ野球 豪傑伝(中)』大道 文(著)ベースボールマガジン社 1986年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』
                   http://www.baseball-museum.or.jp

日本プロ野球歴史秘話(13)/巨人軍初代背番号「3」 (了)