1年で消えた『急映フライヤーズ』って?

1年で消えた『急映フライヤーズ』って?

日本プロ野球歴史秘話(14)

新球場「エスコンフィールド北海道」のオープンで、今年も話題の「北海道日本ハムファイターズ」。

その球団史を遡っていくと、「東急フライヤーズ」という 東急電鉄 が経営していた時代に出会います。

1947年(昭22)から1953年(昭28)がその時期に当たるのですが、2年目の1948年(昭23)だけ「急映フライヤーズ」という名前で活動していました。

なぜ、そんな名前だったのか?
どうして1年間だけだったのか?
謎の球団「急映フライヤーズ」。

今回はそんなお話です。


当ブログでは「日本プロ野球」の知られざる歴史を不定期で連載しています。
これまでのお話は下記からどうぞ。

「日本プロ野球歴史秘話 シリーズ」


東急の『急』 大映の『映』

「急映フライヤーズ」は、鉄道の「東急電鉄」、映画会社の「大映」それぞれの持つチームが合併してできた球団です。
会社名は「東急大映野球倶楽部」。
1948年(昭23)の事ですから、プロ野球はまだ8球団で1リーグの時代でした。

共同経営という事で運営費などは両者の折半という形でしたが、年俸に関しては東急の選手には東急から、合流した大映の選手には大映からそれぞれ支払われていようです。
つまり、1球団が別々の2つのチームで成り立っていたという感じですかね。
「急映」当時を振り返った記事やインタビューを読んでみると、それぞれの出身球団同志の対立が顕著で、揉め事の多いチームだったことが伺えます。
そんな猛者達を束ねる監督は大変だったろうなぁ...(実際シーズン途中で監督が代わっています)

こんなチームでしたから、大下 弘・小鶴 誠 といったホームランバッターや黒尾重明・白木義一郎・野口正明といった好投手を擁しながら、8球団中6位という成績でシーズンを終えています。

なぜ、そんな不自然な形で合併したのか?
「東急」「大映」それぞれの経緯を遡って追っていくと、その理由が見えてきます。

東急フライヤーズ

戦後(1946年:昭21)復活したプロ野球8球団の中に「セネタース」という新球団がありました。
これは戦前に存在した「東京セネタース」の初代監督であった横沢三郎が中心となって、その復活を狙い結成されたチームです。
しかし、戦前のそれと違いセネタースにはこれといったスポンサーがおらず、経営は1シーズンを終えた段階で完全に行き詰まってしまいました。
そこで横沢は旧知の小西得郎などの仲介を受け、東急電鉄にチームを売却します。

当時の東急電鉄は戦時中の統制により、小田急電鉄や京王電鉄、京浜急行など関東の私鉄数社を統合したいわゆる「大東急」と言われる時代でした。
国策によって望まない統合させられた各社は分離独立を強く求めており、社内は混乱を極めます。
また、戦後に勢いを増した労働運動も 大東急 を大きく揺さぶりました。
東急は全社員の団結の象徴として、また敗戦で疲弊した国民への娯楽の提供を目的にセネタースを買収。
チーム名を「東急フライヤーズ」と改め1947年(昭22)のシーズンに臨みます。
「フライヤーズ」には「高く飛翔する人」もしくは「高速列車」という意味があり、新たな時代の鉄道会社にはピッタリのチーム名ですね。

期待を込めた初年度のシーズン成績は6位でした。

大映球団

このチームはプロ野球に参加するために結成された球団です。

東急フライヤーズが生まれた同じ年のオフ。
中部日本ドラゴンズ(現:中日)の主導権争いで球団代表だった 赤嶺昌志 が解雇され、それを不服とする主力選手が集団で退団するという事件が起こりました。
一方的に退団した選手たちを引き受けるプロ球団は無く、赤嶺は幅広い人脈を持つ小西得郎ら(ここでも登場です)に次善策を相談します。

大映社長の 永田雅一 は以前から球団経営に興味を持っており、小西からの仲介の話をプロ野球参入のチャンスと捉え、元ドラゴンズの選手たちを迎え入れ「大映球団(大映野球)」を結成。
永田はこのチームをもって日本野球連盟に参加を申し込みますが主体となる選手たちの経緯や、大映が参加した場合球団数が奇数となり、効率的な日程調整が出来ないなどの理由で脚下されてしまいました。

このとき連盟会長の 鈴木龍二 から「新規の参加は許可できないが、既存球団の買うのは自由である」とアドバイスを受けた永田は、新たな目標を球団買収による参入に変更し動き始めます。

永田雅一は戦前からプロ野球に興味を持っていたそうです。
本拠地を「映画の都・京都」とし、具体的な検討を指示していたとの証言があります。
戦時体制に入ると本業の映画業界も大混乱に陥りこの話は流れてしまいましたが、
実現していたらどんなチームになっていたんでしょうね?

東急が身売り? 

初年度を戦い終えた「東急フライヤーズ」でしたが、その経営は苦しいものでした。
球団の運営を任されていた代表の 猿丸 元 は、経営の先行きが見えないフライヤーズに早くも見切りを付け(早すぎないかぁ?)、球団売却を東急上層部に打診します。

一方、球団買収に意欲を燃やす永田は、公職追放になった元政治家(永田が生活の面倒を見ていた)を動かし、東急の創始者 五島慶太 から”売却の意志あり”との情報を得ます。
早速、大映側は猿丸と会談し、その席で買収を決めました。
後は、東急の重役会での承認さえ得ればフライヤーズは永田のものとなるはずでした。

運命の重役会の直前、猿丸は東急の経理担当重役の 大川 博 にフライヤーズ売却の報告をします。
それを聞いた大川は憤慨し「猿丸君、それは君が間違っている。」「フライヤーズは東急だけのものではない、戦争で憔悴した人々の心のよりどころだ。」「一年で投げ出すとは、東急の信用にかかわる。」と大反対をしました。
赤字を理由で売却に動いていた猿丸は、実際に苦しい会社の予算から費用を出し球団を支えた大川の熱意に押され、この話を撤回し重役会の議題に上げませんでした。

大川の”チーム愛”が、東急フライヤーズを身売りの危機から救ったといえるでしょう。

フライヤーズの救世主となった大川 博は球団オーナーに就任。
その後の生涯を通じて、チームに愛情を注ぎ続けました。
2リーグになった後は、パ・リーグ総裁も務めるなどプロ野球に大きな功績を残した人物です。

私(管理人)的には、上記の出来事も含め野球殿堂入りして欲しいと思っています。

そして「急映フライヤーズ」へ

こうしてフライヤーズ身売りの話は無くなりましたが、永田が抱える元ドラゴンズ8選手の処遇が問題として残りました。

永田は苦肉の策として、これらの選手を東急に合流させる事を猿丸に提案します。
そもそも今回の騒動はフライヤーズの赤字が発端でしたから、猿丸としてはこれ以上選手を増やしたくありません。
宙に浮いた選手たちはいずれもドラゴンズの主力選手ですから、それなりの年俸も必要となります。
また「合併球団は上手くいかない」という過去の例をあげ、合併を懸念する現場の声もありました。(これに関してはその通りの結果となってしまいました)

東急としてはあまり乗り気ではなかったようですが、話し合いの結果、東急は永田の選手たちを球団で預かり、その代わりに大映からフライヤーズへ資金を提供し対等に合併する事と決定します。

1948年2月、1年で消えた球団「急映フライヤーズ」はこうして生まれました。

確かに東急側としては、売却を直前でひっくり返した負い目もあったでしょう。
しかし、話が無くなった以上「合併球団」のリスク等を考え、永田の提案を断ることも出来たはずです。

では、なぜ東急がこの合併を受け入れたのか?
それには「東急」と「大映」の野球以外のつながりが大きく関係しています。

花嫁選手

この時代、東急グループの傘下に「東横映画(以下:東横)」という映画会社がありました。

戦前は他社が作った映画を東横の映画館で上映するいわゆる興行会社でしたが、戦後の1947年(昭22)に満州から引き揚げてきた優秀な映画人を集め、映画の製作を始めました。(東急がセネタースを買った年です)
空襲で多くの映画館を失っていた東横は、製作した映画を上映する映画館を確保するため広い配給網を持つ「大映」と提携、撮影所も京都にあった大映の「第2撮影所」を借り受け、大映株を大量に買い入れ大株主となるなど関係を強化していました。
”「東横」が作った映画を自社や「大映」配給する映画館で上映し、そこで得られた利益を一定の割合で両社が配分する”、今風に言うとウィンウィンの構造だったんですね。

「急映フライヤーズ」誕生の裏には、こんな事情もありました。
さすがにこんな深い関係があるのなら、永田の希望を無下に断ることは出来なかったでしょう。
この結末には頷けます。

1948年のシーズン直前の3月。
「花嫁選手」という野球映画が公開されました。
製作:東横映画、配給:大映。
主演は高峰三枝子で、その相手役にフライヤーズの主砲 大下 弘 をキャスティング。
球団の選手も総動員という、まさに「急映フライヤーズ」を体現した陣容の作品です。
機会があったら必見ですよ!(という私(管理人)も未見です…見たいです‼)

その後のフライヤーズ

1948年(昭23)のシーズンが終わると、永田は経営危機の「金星スターズ」を買収。
フライヤーズに預けていた選手を引き上げ、共同経営を解消し「大映スターズ」として再出発します。
永田の夢であったプロ野球への参入がようやく叶いました。
「大映スターズ」はこの後「大映ユニオンズ(高橋と合併)」「大毎オリオンズ(毎日と合併)」「東京オリオンズ(毎日が撤退)」「ロッテオリオンズ(ロッテのネーミングライツ)」へと、1970年(昭45)まで永田と共に離合集散の歴史を歩むことになります。
(永田の大映に替わり「ロッテ」が経営を始めた1971年から「ロッテオリオンズ」、1992年から「千葉ロッテマリーンズ」)

元の「東急」に戻ったフライヤーズは、1954年(昭29)傍系の東横映画と他2社が合併し設立された映画会社「東映」に経営を移管、「東映フライヤーズ」として1972(昭47)年まで活動します。
東映が経営から退いた後は、1973年(昭48)の「日拓ホームフライヤーズ」を経て、翌年から「日本ハムファイターズ」そして「北海道日本ハムファイターズ」へと現在まで球史を紡いでいます。


プロ野球の年表ではわずか1行に過ぎない「急映フライヤーズ」ですが、その誕生から終焉までには「東急電鉄」「大映」「東横映画」「中部日本ドラゴンズ」「日本野球連盟」といった会社・団体や「五島慶太」「永田雅一」「猿丸 元」「大川 博」「赤嶺昌志」などの思いが複雑に絡み合っている事がお分かりいただけたかと思います。

プロ野球史において終戦直後から1970年代に掛けては、プロ野球界がダイナミックに変動する大変興味深い時代だと言えます。
これからもこの連載で、そんな歴史に隠れた1行を探索しご紹介していけたらと思っています。


参考文献
『プロ野球70年史 歴史編』ベースボールマガジン社 2004年
『プロ野球史再発掘 1~7』関 三穂(編)ベースボールマガジン社 1987年
『ディズニーを目指した男 大川博 ~忘れられた創業者~』津堅信之 (著)日本評論社 2016年
『プロ野球 豪傑伝(中)』大道 文(著)ベースボールマガジン社 1986年

『プロ野球復興史 ~マッカーサーから長嶋4三振まで~』山室寛之(著)中公新書 2012年
『プロ野球「経営」全史 ~球団オーナー55社の興亡~』中川右介(著)日本実業出版社 2021年
『社長たちの映画史 ~映画に賭けた経営者の攻防と興亡~』中川右介(著)日本実業出版社 2023年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』 http://www.baseball-museum.or.jp

日本プロ野球歴史秘話(14)/1年で消えた『急映フライヤーズ』って? (了)