昭和にあった2軍だけの「山陽クラウンズ」って?

昭和にあった2軍だけの「山陽クラウンズ」って?

日本プロ野球歴史秘話(15)

2023年9月29日「日本野球機構」(NPB)は、新たに新潟と静岡を本拠地とするプロ野球2軍チームの参加を承認しました。
新潟の「新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」はイースタンリーグ、静岡の「ハヤテ223」(ふじさん)はウエスタンリーグの所属となります。

私(管理人)はこのニュースを聞いた時、ふと昭和にも存在した2軍だけのチームを思い出しました。

その名は「山陽クラウンズ」。
活動期間は約3年間と、とても短いものでした。

山陽クラウンズとはどんな球団だった?
なぜ2軍だけのチームが誕生したのか?

今回はそんなお話しです。


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『山陽クラウンンズ』って?

「山陽クラウンズ」は1950年(昭25)9月(3月もしくは5月説もあり)に、姫路・神戸間を走る「山陽電気鉄道」が設立したチームです。
正式名称は「神戸倶楽部山陽野球団」。
試合を行うホーム球場は明石球場、自社沿線に合宿所をもっていました。
今から70年以上前の事です。
プロ野球リーグ(日本野球機構)には所属せず、独立チームとして活動していました。

前年の暮、プロ野球界はセ・リーグとパ・リーグに分裂し、それまでの8球団から一気に15球団となりました。
これにより球界は選手の引き抜き合戦や、新人選手の獲得のためのスカウト合戦など”金で選手を釣る”(言い方は悪いんですが)状態になっていました。

山陽電鉄はこのような球界を憂い、健全な野球選手を育成するため球団の設立を思い立ちます。
もちろん、前年に参入希望企業が殺到したほどのプロ野球人気も踏まえ、将来の1軍チーム参入を見据えた有望なビジネスとしての側面もありました。
同じ関西の私鉄にはプロ野球チームを経営する会社も多かったので、そこら辺の対抗意識もあったのかも知れませんね。

球団の収入としては、以下の3つが挙げられます。
①試合の入場料
②優秀な選手を自軍で育成して他球団へ移籍させ、移籍金を得る
③他球団(2軍を持たないプロ野球団)の選手を預かり、育成費を得る
というものです。
③の育成費に関しては、合宿代などを含め一人一万円でした。(お米や公務員の初任給を元に現在の金額にしてみると約30万円くらいでしょうか)

来年から参加する新潟と静岡のチームも、主な収入は上記①と②をベースに放送・配信権料やグッズ販売、協賛スポンサー料等が加わる形になると思われます。(他球団から5名程度の派遣があるようですが、育成費は発生しないようです)
現代を先取りしたようなビジネスモデルを、この時代に行っていた山陽電鉄の先進性には驚かされますね。

”良き野球人の育成”という理想を掲げ、斬新な経営方針を持って旗揚げした山陽クラウンズでしたが、1952年(昭27)を持って解散してしまいます。

なんだかもったいない気もしますが、これには当時のプロ野球の事情が大きく関係しています。

『山陽クラウンズ』誕生の頃のプロ野球2軍

プロ野球の2軍は、山陽クラウンズが結成される2年前の1948年(昭23)に結成された「急映チックフライヤーズ」と「金星リトルスターズ」という2チームからスタートしました。 
これらは現在にような若手の育成や野球の振興を目的にしたものではなく、解散した他リーグチームの一部や他球団を脱退した選手を引き取ったため選手が余ってしまい、やむなくチームを立ち上げたといった感じです。
選手は準契約(1軍の試合には出られない)で、一球団20名までとされました。

翌年(昭24)になると選手育成のために2軍を結成したり、練習生を採用した球団と他球団の2軍が混成チームを作ったりといくつかのファームチームが生まれましたが、全球団が持つまでには至らずリーグ戦を行う規模ではありませんでした。
ですので、近隣の球団同士で行うオープン戦が、活動の中心となりました。

山陽クラウンズが生まれた1950年(昭25)は前章でも触れたように、球団数が増え選手の数が不足した関係で年俸や有望新人の契約金の相場が上昇し球団経営を圧迫。
そのため若手を自前で育成する方針を採る球団が増え、2軍チームが続々と誕生します。
新規参入球団の中には1軍のチーム運営が手一杯で2軍を持てないチームもありました。
クラウンズはそれらの球団を念頭に置いて選手育成の業務委託を受け入れていた訳ですね。
初年度は「西日本パイレーツ」の選手4名が加入しています。

この年はクラウンズを含め10球団がファームチームを持ち、全球団が集まったトーナメント大会の開催や、お披露目を兼ねて地方へ遠征し多くの観客を集める球団も現れるなど、順調に発展していくようにも思えました。
が、急激に膨張したプロ野球の経営は安定せず、作ったばかりの2軍を解散したり、選手を親会社の社員にしたり、ファームチームをそのまま社会人野球に加入させたりする球団が相次ぎます。
またファーム全体を統括する組織が存在せず、各々のチームが都合のつく相手と試合をする形態が多く試合数もあまりありませんでした。

このように先行きは明るいものとはいえない環境の中、山陽クラウンズは船出しました。

「山陽クラウンズ」の3年間

「山陽クラウンズ」についての公式記録は、残念ながらあまり残っていないようです。
ですので、ここからは私(管理人)のわかる範囲で「クラウンズ」の足跡を書いて行きたいと思います。

1950年(昭25)
テスト入団の新人選手と西日本パイレーツからの育成選手で結成されたクラウンズは、兵庫県内の球場で数か月に及ぶ練習を重ね、11月3日明石球場での「山陽球団結成記念試合」に臨みます。
阪急2軍および南海2軍との2試合が行われ、対阪急が0-8、対南海が2-3と記念すべき初試合を飾れませんでした。

続いて11月22~25日には大阪球場で行われた「第1回日本マイナーチーム選手権大会」に出場します。
セ・リーグの「巨人」「阪神」「松竹」「国鉄」「大洋」パ・リーグの「阪急」「南海」「東急」と独立の「山陽」の9球団参加で、日本野球機構(NPB)の公式トーナメント大会でした。
クラウンズは第一試合の対大洋戦に出場。
結果は2-6で敗退しています。
「2軍とは言えプロの壁は厚かった」といった処でしょうか?
初代チャンピオンは南海ホークスでした。(この大会の第2回はありませんでしたが…)

山陽クラウンズの初年度は、この3試合(0勝3敗)のみとなっています。


1951年(昭26)
クラウンズは、2軍を解散した大洋の選手を業務委託として受け入れ新たなシーズンを迎えます。
が、前年にファーム日本一決定戦を行うなど盛り上がりを見せたファームでしたが、経営上の都合から2軍を整理(解散、縮小、社会人野球へ移行)する球団が多く、全体的に規模が小さくなってしまいます。
また試合よりも練習に力を入れるため試合を減らしたチームや、分裂時の事情(ケンカ別れです)から他リーグとの試合を避ける球団が出るなど、ファーム全体の試合数は激減します。
統括組織を持たない悲しさといいましょうか・・・
そのあおりを受け、クラウンズはほとんど対外試合を行えない状態に陥りました。

そんな理由からか、この年クラウンズの試合記録は確認できません。
選手たちは明日を信じて練習するのみでした。(練習試合は行っていたようです)


1952年(昭27)
選手の育成には試合経験が重要ですね。
この年、クラウンズは日本野球機構に対し2軍戦への参加を申請し承認を得ました。
大阪と名古屋での試合が対象です。
これで他球団並みに試合がこなせる様になったわけです。

この年の4月には関西の球団(阪急、阪神、南海、松竹、名古屋、西鉄、山陽)による「関西ファームリーグ」が発足します。
これは参加球団が費用を分担し運営するもので、日本野球機構の承認したものではありませんでした。
また、本拠地の場所によって球団ごとの試合数もまちまちで、リーグとはいえ順位を争う性格のものではなかったそうです。

クラウンズの試合数はリーグ参加によって29試合と劇的に増えました。
シーズン初戦となった2月24日、巨人を2-0で破りチームの初勝利を記録しています。
また、8月に行われた「和歌山県知事杯 関西ファームリーグ トーナメント大会」では、初戦で阪神に1-0、2回戦の西鉄に11-6で勝利し、決勝戦に勝ち上がりました。
惜しくも名古屋に10-1でやぶれるも準優勝。
厳しい練習が確実にチームを強化して来たことの証明ですね。

この年のクラウンズの勝敗は11勝17敗1分でした。

8月が終わると、突然クラウンズの対外試合が無くなりチームは活動を停止してしまいます。
経済的に立ち行かず10月に「山陽クラウンズ」は公式に解散しました。

希望に満ちた理想を掲げ苦しい状況に耐えたチームは、健闘空しく3年足らずでその歩みを止めることとなったのです。

クラウンズから育成選手としてプロ球団(毎日)に移籍したのは1名、チーム解散後に大洋に2名の選手が移籍しました。


「山陽クラウンズ」に関する資料は本当に少ないです。
2軍のみのチームであったこと、独立の存在であったこと、球団ごとに2軍に対する考え方が違ったこと、球界のファームが黎明(れいめい)期にあったこと、統括組織がなかったことなど理由はいくつか考えられます。
この記事を書くに当たり、二軍研究家・松井 正 氏の書籍や記事が参考に大変参考になりました。
氏の著書「二軍史 ~もう一つのプロ野球~」は山陽クラウンズだけではなく、日本プロ野球のファームの歴史を創設期から現在に至るまで資料を丹念に調べ網羅した優れた資料です。

山陽クラウンズが解散して71年。
来季から参加する新潟と静岡のファームチームの将来には、私たちプロ野球ファンの支持や応援が欠かせないでしょう。
私(管理人)も両チームの誕生をお祝いすると共に、及ばずながら応援していきたいと思っています。
両チームの成功が新たなファームチームの誕生や、一軍球団のエクスパンション(拡大)につながるかも知れません。

日本プロ野球の発展を夢見て...


参考文献
『二軍史 ~もう一つのプロ野球~』松井 正(著)啓文社書房 2016年
『野球雲  VOL.8「野球と鉄道」の旅路』啓文社書房 2017年
『プロ野球と鉄道 ~新幹線開業で大きく変わったプロ野球』田中正恭 (著)交通新聞社 2018年
『南海ホークスがあったころ ~野球ファンとパ・リーグの文化史~』永井好和/橋爪紳也(著)紀伊國屋書店 2003年

『プロ野球復興史 ~マッカーサーから長嶋4三振まで~』山室寛之(著)中公新書 2012年
『球団消滅 ~幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎
』中野晴行(著)筑摩書房 2000年
『大洋ホエールズ誕生後! ~レギュラーシーズン後半からセリーグオールスター東西対抗戦まで~』佐竹敏之(著)文芸社 2023年
『公益財団法人 野球殿堂博物館 公式ホームページ』 http://www.baseball-museum.or.jp