2026年(令8)10月1日。
東海道新幹線は開業62周年を迎えます。
のべ約70億人を運び、乗客の死亡事故はゼロ。
年々バージョンアップされてるとはいえ、60年以上前に設計された基本システムがいかに優れていたかの証明といえるでしょう。
さて、初代新幹線といえば”丸い目と団子っ鼻”の「0系」ですね。
1964年10月1日、盛大なセレモニーで東京駅を発車する「超特急ひかり1号」の写真に映ってる車両も「0系」です。
すでに引退して15年以上経った現在でも「0系」はおもちゃをはじめ様々なグッズになっている人気者ですが、実は偉大な先輩がいるんです。
それはどんな電車だったのか?
どのあたりが偉大なのか?
今回はそんなお話しです。
モデル線
東海道新幹線の計画を進めるにあたっては、様々な新技術が導入されました。
その分野は車両だけにとどまらず、線路、電気、施設、信号、保安など多岐にわたります。
コンピューターによるシミュレーションが皆無だった当時、”入念に設計した車両を実際に作って走らせ、不具合や欠点を見つけそれを修正してまたそれを繰り返す”ということが開発の大きな部分を占めていました。
その為にいわゆるテストコースが必要となり、地形の条件(トンネルや鉄橋があるなど)を考慮し優先的に建設されたのが「モデル線」(モデル線区とも)です。
1962年(昭37)6月に使用が始まりました。
神奈川県綾瀬市から小田原市までの約30㎞がそれにあたり、その線路の上を現在も新幹線が走っています。
新横浜をで下り列車で進行方向左側の車窓に注目していると、やがて東海道本線(在来線)が近づいてきて平走する形になります。
丁度そのあたりに「モデル線」の車両基地がありました。
車両基地は近くに東海道本線の鴨宮駅がある関係から「鴨宮基地」呼ばれ、今回の主役「0系」の先輩たちの本拠地となりました。
下は1962年12月の鴨宮基地周辺の航空写真です。

その名は「1000形」
「モデル線」での走行実験を担ったのが「1000形」という試作車たちです。
1962年(昭37)に、「A編成」(1001、1002)と「B編成」(1003~1006)の合計6両が作られ、その試験結果を元に製作された「C編成」の6両が1964年(昭39)に追加されました。
「C編成」は営業運転に使う「0系」の先行量産型でしたのでモデル線での試験のあと、開業時に一般編成に組み込まれています。
(C編成にも便宜上1011~1016の番号がつけられましたが、正式には「1000形」には含まれません)
つまり「1000形」はー初代・新幹線ーといえるわけですね。
「1000形」の6両はのちに「0系」を生産する車両メーカー5社が製作し、特別な貨車に積まれ、在来線を経由して鴨宮基地に搬入されました。
ホームでを列車を待っていた乗客は、突然現れた「夢の超特急」にビックリしたでしょうね。
「1000形」と「0系」の違い
「1000形」と「0系」は先輩・後輩だけあってとても良く似ていますが、なんだかちょっと違いますね。
詳しく見た目の違いを見ていきましょう。(写真はクリックで大きくなります)

*運転席窓
空気抵抗を少なくするために、曲面の合わせガラスになっています。
「B編成」の1006のみ平面ガラスにして比較検討の結果、こちらが「0系」に採用されました。
*光り前頭(光前頭)
「団子っ鼻」の部分です。
アクリルで出来たカバーの中には連結器が納められ、これを使って「A+B+C編成」の12両での走行テストも行われました。
また、内部に取り付けられた蛍光灯によってカバーが明るく輝き、遠方からでも列車の接近が確認しやすいように工夫されています。
ヘッドライトとあわせて光の塊が近づいてくるイメージですね。
「0系」では蛍光灯は付けられず、ヘッドライトからの漏れ明かりでうっすらと光る程度になっています。(その後カバーの材料変更により全く光らなくなりました)
*ヘッドライト
いちばん印象の違いを感じる部分かもしれませんね。
片側1灯ずつの小さいタイプです。
試験の結果「0系」では2灯ずつに変更され、お馴染みの「丸い目」になりました。
*静電アンテナ
作業時の安全確認のため、架線に電気が流れているか検知するためのアンテナです。
「1000形」では単純なL字型でしたが、「0系」はスマートなブレード形状になりました。
「新幹線のツノ」なんてよぶ人もいるようです。
*番号表示窓
これも「0系」と大きく違うポイントです。
ボンネットの両側に列車番号を表示する小窓が設けられていました。
当時発売されていた”新幹線のおもちゃ(ブリキのやつですね)”にも、この小窓が付いたタイプが多かった記憶があります。
*客室扉
車体の外側で開閉する、外吊り式のプラグドアとよばれるものです。
車体と扉の段差が少なくなるので空気抵抗や風切り音などが減らすことができ、また戸袋が必要ないため車内を有効に使える(少しですが)といったメリットがあります。
反面、構造が複雑で維持コストがかかる事や気密性の問題から「0系」では採用されませんでした。
*スカート
空力を考えたスマートでシンプルな形状です。
テスト中の起きたアクシデント(雪の吹き溜まりに衝突など)の際に強度不足がわかり、「0系」ではスカートの内側に5枚の鋼板を重ね緩衝器をつけた強化型のものに変更され、更にレールの上の障害物対策としてゴム製の排障器も加えられました。(いちばん前の台車にも小さな排障器が取り付けてあります)
その他「0系」には、舞い上がった雪が車体に貼りつかないように外側へ飛ばす「雪よけ板(スカート中央のV字)」や、高速時の車体を安定させる「フィン(両サイド)」が追加されています。
以上が「1000形」と「0系」の主だった違いです。
下の「0系」と見比べてみて下さいね。

京都・鉄道博物館に展示されている「0系」です。
こちらの施設には「C編成」の一部だった3両(21-1と22-1の先頭車と16-1のグリーン車)が保存されています。
ある意味「1000形」ファミリーの生き残りともいえます。
「1000形」と「モデル線」の果たした役割
世界初の『時速200㎞の営業運転』を実現するために「1000形」と「モデル線」には数多くのテストが課されました。
その項目は100を超えたと言われています。
「1000形」では主に高速走行における走行安定性や空気抵抗をはじめとし、各機器(モーターやブレーキ、ATC*1などの信号関係)の動作確認が試験されました。
その他、パンタグラフ(3種)や台車(6種)、車輪の材質(3種)、車軸(2種)、駆動装置(6種、、車体の構造(2種)などを複数作製し比較テストを行いました。
また、ハード面だけではなく乗客のための設備(座席の形状、乗り心地、車内放送設備、空調装置など)についても検討を繰り返した他、高速でトンネルに入った際の気圧変化による「耳ツン(飛行機や速いエレベーターに乗った時に起こる耳の痛み)」対策など『時速200㎞』という未知の領域からのフィードバックを生かしその後の「0系」の設計に反映させています。
この他にも「1000形」と「モデル線」は乗務員・整備要員の育成や車両・路線の整備体制の確立、新幹線に関する特例法の制定など高速鉄道の実現に向け、大きな役割を果たしました。
*1 ATC
自動列車制御装置( Automatic Train Control)。
安全運行のため、列車の速度を自動で制御するシステム。
新幹線では高速走行になりますから、普通の信号を目で確認する事が困難なため採用されました
さらに、モデル線では一般の人々を乗せた「試乗会」も開催され、開業前に実に10万人以上もの人々がこの「夢の超特急」をひと足早く体験しました。
それだけでなく、皇室の方々や海外からの来賓などの内外の要人や報道関係者も多数試乗し、新幹線の素晴らしさを広くアピールする役割も果たしたのです。
モデル線は、技術のテスト場であると同時に、人々の期待を膨らませる舞台でもあったのですね。

試乗兼
リニア鉄道館にて 管理人撮影

リニア鉄道館にて 管理人撮影
世界記録 時速256キロ
1963年(昭38)3月30日。
モデル線で歴史的な瞬間が訪れます。
1000形(B編成)が、当時の電車方式としては世界最高となる時速256キロを記録したのです。
前年のテスト開始から時速250キロを目指し、段階的に速度向上試験を重ね万全を期しての走行でしたが、列車は激しい揺れ(蛇行動)に襲われました。
しかし、乗り込んだスタッフは誰一人として走行中止を考えなかったといいます。
目標を超えて時速256キロに達したその時、運転主任が「車内の速度計の写真を撮るなら今だぞ!」と車内アナウンスを入れ、全員でその快挙を分かち合ったというエピソードが残っています。
走行を終えた線路を確認したところ、蛇のようにグニャグニャに曲がり一同肝を冷やしたそうです。
まさに、命がけの記録達成ですね。
先頭車に飾られた記念のプレート(下の写真)からも、当時のエンジニアたちの誇りと熱気が伝わってきます。

「新幹線資料館」にて管理人撮影

「リニア・鉄道館」所蔵の模型:管理人撮影
「初代ドクターイエロー」への変身
さまざまなドラマを生んだモデル線でのテストを終え、1000形は1964年(昭39)4月に新たな人生へと歩み出します。
試験車としての役目を終えた1000形の2編成は浜松工場へ送られ、改造を受けることになりました。
・A編成: 事故などの際に機材や人員を輸送する「救援車(941形)」
・B編成: 走りながら電気や信号の点検をする「電気試験車(922形)」
この時、車体のカラーリングも当時の事業用車両に合わせた「黄色に青帯」へと一新されました。
現在のように「ドクターイエロー」という愛称で呼ばれるのはずっと後のことですが、このB編成(922形)は、新幹線の安全を守り続けた「初代ドクターイエロー」と言っても良いでしょう。
A編成は幸いにも出番がほとんどありませんでしたが(良いことです)、B編成はまさに「縁の下の力持ち」として、開業後の新幹線を陰で支え続けました。
下の写真はB編成が改造された「922形」の模型です。
後に「T1編成」とも呼ばれました。

その後の「1000形」
以来、黙々と新幹線を支えてきた「1000形(941形・922形)」たちでしたが、1970年代に入ると老朽化がが進み「2代目ドクターイエロー(T2編成)」の登場を期に引退することになりました。
試作車として生まれ多くのデータを提供し、安全のための裏方仕事をこなし、後輩たちのために働き続けた1000形には、最後の大切な仕事が残されていました。
それは、新幹線開業と共に大量生産された「0系」の将来の引退に備え、開発中だった「車体解体装置」のテスト用材料としてその身を捧げることでした。
1975年(昭50)夏、1000形は解体されました。
記念すべき”初代の新幹線電車”ですから、先頭車1両くらいは永久保存をして欲しかったところですが、どこまでも技術と安全のために尽くしたその散り方も「1000形」らしいと言えばそうなのかもしれませんね。
今日も「1000形」が基礎をつくったレールの上を、後輩たちが快適に走っています。
「0系」は初代じゃない? 新幹線のルーツ「1000形」とドクターイエロー誕生秘話(了)




