「ベイスターズ」のご先祖は「大洋」じゃなかった? 創設時の意外な球団名

プロ野球史

日本プロ野球歴史秘話(19)

2026年(令8)、セ・リーグのクライマックスシリーズを「横浜DeNAベイスターズ」が鮮やかに勝ち抜き、日本シリーズへの進出を決めました。
シーズン3位からの日本一なるか?注目が集まりますね。

さて、今回はそんな「ベイスターズ」の歴史に触れてみたいと思います。

現在の「横浜DeNAベイスターズ」の歴史を公式の記録で遡っていくと、1950年のシーズンからプロ野球に参加した「大洋ホエールズ」が”ご先祖”という事になっていますね。
しかし、実はその年の開幕の頃までは、別の名前で活動をしているんです。

それは、どんな名前だったのか?
なぜ、いきなり名前が変わったのか?

今回はそんなお話です。


「まるは」ってなに?
不思議に思われた方もいらっしゃるでしょう。
正確には、○の中にひらがなの”は”で表記します。(この記事では以降、「まるは」に統一します)

これは、戦時中に「大洋漁業」(現在のUmios)へと発展していく「林兼商店(はやしかねしょうてん)」をはじめとする、一連の事業体のブランドマークです。(大洋漁業になっても「まるは」を使用していました)
若い方には馴染みはないかもですが、平成の頃までは日本中に知られていたマークだったんですよ。

1949年(昭24)秋、プロ野球が「2リーグ分裂騒動」に揺れる中、「セ・リーグ」に新しい球団がいくつか創設されました。
その中の一つが「株式会社まるは球団」、球団名は「まるは球団ホエールズ」です。

本拠地は山口県下関市。
この地は、「林兼商店」などの創業者・中部幾次郎が、近代漁業を開拓し、遠洋漁業や水産加工において日本一の規模になるまで発展させた港町です。

その中部家の屋号が「林兼」。
つまり、「林兼」の”は”の字が「まるは」のルーツなんです。

「まるは」は、単なる企業のロゴではなく、長年にわたる水産業の歴史と、企業の歩みの象徴であったんですね。
また、地元の漁師たちや経済を支え、街に雇用を生み出し、生活のあちこちに溶け込んだおなじみのマークでもあったと言えるでしょう。

しかし、この地元の誇りであり、水産業界の大物である「まるは」という名前が、のちに中央メディアや野球界の権威たちとの間で、ちょっとした摩擦を引き起こすことになるんですが….。

その出来事はちょっと置いておいて、まずは「まるは球団ホエールズ」誕生の経緯に触れていきましょう。

中部幾次郎の次男・中部兼市は大変な野球好きであり、戦前から自社の社会人野球チーム(林兼商店)の運営に情熱を注いでいました。
戦争によって一時中断を余儀なくされたものの、戦後はいち早くチームの活動を再開(のちの大洋漁業野球部)。
国民体育大会(国体)で優勝を果たすなど、社会人野球の最高峰・強豪の一つに数えられるほどの強さを誇るようになっていました。

戦後復興の影響もあり、大洋漁業の業績も軌道に乗る中、兼市には一つの強い思いがありました。
「支えてくれる消費者や地元の皆様に、人気のあるプロ野球チームを持って恩返しをしたい」
それに加えて、自社の社会人野球チームがどれほど強くなっても、優秀な選手をプロの球団に次々と引き抜かれていくという現実もありました。
「それならば、いっそ自分でプロ球団を持とう!」
と兼市は決意。
1949年(昭24)9月プロ野球参加の申請をします。
折しも球界は「2リーグ分裂騒動」のさなかで混沌としていましたが、加盟承認の目処が立った同年11月、兼市を社長とする「株式会社まるは球団」が正式に設立されました。

ここに「ベイスターズのご先祖」が誕生したわけですね。

プロ野球でも強豪を目指す兼市は、「社会人野球の選手は残さなくていいから、思い切ってプロから集めろ。」と積極的な選手集めを指示しました。

東京・大阪、それぞれの担当者は、監督として日本初の三冠王・中島治康とスタープレイヤー平山菊二を巨人軍と交渉して獲得したり、他の社会人野球チームの監督・渡辺大陸を総監督に迎え、その教え子たちを次々とプロの世界へと引き入れていきました。

中でも有名なのは、大阪の交渉担当であった安居院英次(あぐいえいじ)の”すき焼き屋のエピソード”です。
彼は座敷に陣取り、朝からすき焼きを用意して、次々にスカウトが連れて来る選手を待ち構えていました。
その時代らしく床の間には現金が山積みになっていて、交渉成立するとその場で契約金を渡していたとか…..。
なんとも戦後の昭和らしい、泥臭さと熱気に満ちたスカウト劇ですなぁ。

こうして集められた選手たちは、1950年(昭25)1月26日、列車でフランチャイズの下関に到着。
駅前には歓迎アーチが建てられ、待ちわびた大勢の市民が大きな歓声でチーム迎え入れました。

新球団「まるは球団ホエールズ」の華やかな船出です。

ここで、先ほどの「中央メディアとのちょっとした摩擦」のお話に戻りましょう。

実は、「まるは球団」が誕生した頃、報道ではその呼び名に混乱が見られるんです。

大きく分類すると、中央メディア(大手新聞・雑誌)は 「大洋」 と表記し、地元下関の新聞では 「まるは」 となっていました。
もちろん球団の親会社「林兼商店」は「大洋漁業」の一部といっていい状態でしたから、「大洋」と呼んでも良かったのかも知れません。
反対に下関の新聞では、街のアイデンティティでもある「まるは」を使っていても違和感はありませんね。

では、当の球団自身の見解はどうだったのか?
当時の球団常務・河野岩太の重要な証言が残っています。

「大洋に改称の意思はない。(中略)リーグにも「まるは」で届けている。」(1950年1月31日 朝日新聞)

球団としては、「まるは」が正しいと、決して「大洋」ではないと言い切っています。

では、なぜ「大洋」の名前が一人歩きしたのか?
当時の報道や私(管理人)の推測を合わせると以下のような理由が考えられます。

  • 確かに親会社は申請の通り「林兼商店」だが、社長の中部兼市は元大洋漁業の社長だったし、後ろ盾としても大洋漁業があるのだから「大洋」であると言う世間の感覚。
  • 新聞・雑誌に「まるはマーク」の活字がないから表記に困る、という活字媒体からの苦情。
  • 「まるは」では田舎くさくてスマートではない、というファンや選手の意見。
    また、アメリカナイズされた球界を目指していた連盟上層部の、「まるは」を良く思わない人物の存在。

こうした事情を考え合わせると、球団の外側では「まるは」よりも「大洋」という名称を使う方向へ、なんとなく流れができていたのかなぁなんて思っています。(陰謀論とか大げさな話ではなく。笑)

しかし、この名称問題は、実にあっさりと解決します。
あれだけ「まるは」にこだわっていた球団が、1950年3月「大洋ホエールズ」に正式に名称変更したんです。

こうなると、「なぜ、わずか数ヶ月で名称変更したの?」って疑問がわいてきますね。

次章では、そのあたりを少し掘り下げていきたいと思います。

ここからは、当時の出来事や社会情勢を時系列で整理しながら、私なりに考察してみたいと思います。

先にお断りしておきますが、ここから先は、確認された事実を解説するものではありません。資料から確認できる出来事と当時の状況を照らし合わせ、私なりに推測した仮説です。
また、改称の理由を直接裏付ける資料が見つかっているわけではありませんので、その点をご理解くださいね。


では、なぜあれほどまでに「まるは」にこだわり、公式の書類や報道でもその看板を守り抜こうとしたのか?
そこで注目したいのが、GHQによる公職追放との関係です。

当時、日本の財界や政治のトップたちは、戦争責任などを問われて次々と公職追放の対象となっていました。

それはプロ野球界も例外ではなく、直前の1949年(昭24)には、プロ野球の父ともいえる「正力松太郎」がコミッショナーに就任した数日後、GHQ民政局(GS)から強烈な横槍が入って辞任する事件が起きていました。

そして、「まるは球団」の創設を主導した中部兼市も、当時は公職追放の対象者であり、1947年(昭22)大洋漁業の社長を退いています。

こうした情勢を踏まえると、球団創設にあたって、大洋漁業や中部兼市の名前を前面に出すことには、少なからぬリスクがあったと考えられます。
もし最初から「大洋漁業」の名前を掲げ、兼市が球団のオーナーとして表に立っていたら、GHQの目にはどう映ったでしょうか。
「公職追放中の人物が、かつて自ら率いた企業の資本を背景にプロ球団を作った」――。
そう受け取られれば、球団の創設やリーグ加盟にも影響が及んだ可能性があります。

そこで浮かび上がるのが、リーグ加盟の申請時に、会社名を「林兼商店」、球団名を「まるは」としたことの意味です。

「まるは」という名称は、大洋漁業や中部兼市の存在を前面に出さずに球団を立ち上げるための、いわば「防波堤」の役割を果たしていたのではないでしょうか。

そう考えると、先述の河野常務が「大洋に改称する意思はない」と語ったことも、単なる「まるは」への愛着だけでは説明しきれないものを感じさせます。そこには、球団名を維持すること自体に、何らかの意味があった可能性が見えてきます。

しかし、状況は1950年(昭25)の夏から秋にかけて劇的に変化しました。
朝鮮戦争の勃発など国際情勢の変化に伴い、GHQの対日方針が転換して行ったのです。
同年7月には、林兼商店が大洋漁業と合併。さらに10月には、中部兼市の公職追放が正式に解除されました。

ここで、改めて球団名の変更時期に注目してみましょう。
「大洋ホエールズ」への改称は3月。兼市の追放解除より、半年以上も前の事なんですね。

それでは、なぜこの時期にあれほど頑なに守り続けた「まるは」の看板を下ろしたのでしょうか?

その背景には、会社の合併や兼市の公職追放解除に向けた動きが、すでに見えていた可能性があります。
会社の合併には準備や調整の期間が必要ですから、3月の時点で、先々の動きをある程度見通せていたとしても不思議ではありません。

つまり、「大洋」という名前を前面に出しても問題のない時期が近づいている。
そうした判断が、球団名の変更につながったのではないか。

私(管理人)は、こんな風に考えています。


とは言うものの…。
実は、こんな複雑な事情なんてなくて、単純に 「みんなが『大洋』のほうがいいって言うから」 だったりして。(笑)

おまけのエピソード:「まるは球団オーシャン」?….って「大洋」やないかーい!

「まるは球団」が創立された時期、ニックネームを「ホエールズ」ではなく「オーシャン」にする事も検討されていたことが、当時の新聞報道からうかがえます
「オーシャン」=「大洋」。
「大洋に改称する意思はない」と言っていた時期に、なぜか英語では「大洋」を名乗ろうとしていた……?
もしかしたら、「英語で書いとけばGHQにはバレないっしょ」って事かも…(笑)というのは冗談として、
やはり、関係者にとって「大洋」という名前には、私たちが想像する以上に特別な思いがあったのでしょうね。


野球殿堂博物館にて 管理人撮影

こうして「まるは球団ホエールズ」は「大洋ホエールズ」として、プロ野球に参加しました。

短い期間ながら翻弄された「まるは」ですが、大洋ホエールズのユニホームの肩章や球団旗にしっかりと生き残り、球団が横浜スタジアムに移転するまで、その存在感でファンに愛されました。(1953年54年の洋松ロビンス時代を除く)

プロ野球の歴史を追っていくと、ほんの数行で書かれている出来事の裏にも様々な要因があり、多くの人が関わって動いていた事実に驚かされます。
今回の「まるは」についても、同様でした。

「まるは」という、下関の水産業を象徴する屋号から始まった、「ベイスターズのご先祖」。
それは、戦後の激動期を生き抜いた経営者たちの知恵や、時代の波に翻弄されながらもプロ野球に賭けた人々の熱気の結晶でした。

次にベイスターズの試合を見る時――。「あれ、そういえば最初は『まるは』だったんだよな」と、少しだけ思い出していただけたら嬉しいです。

さて、あなたの応援するチームの「ご先祖様」は、どんな物語を持っているでしょうか?
このオフシーズンは、贔屓チームの歴史を調べて、タイムトラベルをしてみるのも面白いかもしれませんね。
意外な発見が待っているかもですよ。

プロ野球の知られざるドラマを辿る「日本プロ野球歴史秘話」シリーズ
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参考文献
『プロ野球70年史 歴史編』 ベースボールマガジン社 2004年
『プロ野球「経営」全史 ~球団オーナー55社の興亡~』 中川右介(著)日本実業出版社 2021年
『プロ野球 ユニホーム物語』 文:綱島理友 絵:綿谷寛 2005年
『プロ野球史再発掘 各巻』 関三穂(編)ベースボールマガジン社 1987年

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