プロ野球『百獣の王』は大変だった? 前編 ー『ライオン』の名を背負った球団たちー

プロ野球史

日本プロ野球歴史秘話(16)

「百獣の王」と言えば「ライオン」の代名詞ですね。

威厳・風格・強さを併せ持った申し分のないネーミングだと思います。

しかし、この「ライオン」の名を背負った球団の歴史を調べていくと
 名前を使えなくなる
 身売りされる
 怒られる
 ボイコットされる…
かなり波瀾万丈な道を歩んできたことがわかります。

それではご一緒に、「百獣の王:ライオン」の名を名乗った球団たちの歴史を振り返っていきましょう。

あ、これから記事に出てくる 戦前の「ライオン軍」と、戦後の「西鉄ライオンズ」は全く別の球団ですので、その点はよろしくお願いしますね。

今回はそんなお話です。


 現在につながるプロ野球が始まったのは1936年(昭和11)、最初は7チームからスタートしました。
 その中に国民新聞社が経営する「大東京軍」というチームがあり、東京の下町を中心として熱心なファンを集めていました。
 しかし、その経営は盤石では無く1年目が終わった時点で、早くも資金不足に陥ってしまいます。
 親会社からの更なる援助も期待できず、球団首脳は他に出資者を求めて東奔西走することになります。

 ようやく、共同印刷の専務・大橋松男を新たなオーナーとして迎えることに漕ぎ着けましたが、個人の力では継続的にチームを維持することは容易ではありません。
 大橋は義理の兄弟である田村駒次郎を経営に参加させると同時に、資金確保のためのタイアップを思いつきます。
 そこで印刷物で取引があり、広告宣伝に積極的な小林商店(現:ライオン株式会社)へ球団首脳を差し向けました。
 この交渉で、主力商品である歯磨き粉のブランド名「ライオン」をチーム名にすることを条件に、月800円を支援することで話はまとまります。

 現在でいうネーミングライツの先駆けともいえる事例ですね。
 ちなみに、当時の大東京軍の選手の月給は100円から120円ほどだったそうです。

   「大東京軍」 改め 「ライオン軍」

 1937年(昭和12)秋、「百獣の王」がプロ野球に産声を上げました。

備考
このライオン軍の成り立ちについては、「大東京軍側がチーム名を『ライオン軍』とすることを前提に、ライオン歯磨を扱う小林商店に絞って交渉した」という説もあります。
しかし、小林商店以外とも交渉した記録もあるため、この記事では「大東京軍側が小林商店に支援を持ちかけ、ライオン歯磨の支援を得て『ライオン軍』となった」という説を採ります。
こちらの方が経緯としては自然かなと思えるので。

 小林商店は「ライオン軍」の地方巡業をはじめ、ライオン歯磨き粉の購入者を試合に招待したり、チケットの割引を行ったりと、さまざまなイベントを展開して多くの観客を動員しました。
 資金援助だけにとどまらず、観客動員や宣伝面でも球団を強力にサポートしていたんですね。
 そしてその積極的な広告戦略の極めつけが、台風で壊れたままだった後楽園球場のスコアボードを、「ライオン歯磨」の大看板付きで新調して寄付したことです。
 これによって「ライオン」の名は単なるチーム名だけに留まらず、プロ野球全体に鳴り響きました。

 しかし、時代の流れはそんな「百獣の王」の前に立ちふさがります。
 戦時体制が強まる中で日本野球連盟は野球用語の日本語化を決定。
 それに従い、大阪タイガースが「阪神軍」イーグルスが「黒鷲軍」と改称するなど、名称を変更する球団が続出します。

 さて、ここで困ったのが「ライオン軍」です。
 なにせ、商品名ですから「獅子」に変えるわけにもいきませんわな。
 「ライオン」という言葉自体は、すでに日本語として定着していたとも考えられますが、連盟に決定に逆らうわけにもいかず、心ならずも小林商店との契約を打ち切ることになりました。
 
 1940年(昭和15)のシーズンオフ。
   「百獣の王」はひっそりと身を引きました。

 翌年から「ライオン軍」は「朝日軍」として活動することになります。

 1945年(昭和20)。
 長かった戦争も終わり、直後から活動を再開したプロ野球は、戦後の開放感も手伝って人気を集めました。
 これに目をつけた企業の球界への参入希望が相次ぎ、それを巡る意見の相違などからプロ野球は「セ・リーグ」と「パ・リーグ」に分裂し、1950年(昭和25)のシーズンから「2リーグ制」に移行します。

 2リーグ制の初年度、九州の福岡にはセ・リーグの「西日本パイレーツ(経営は西日本新聞)」とパ・リーグの「西鉄クリッパーズ(経営は西日本鉄道)」の2球団が誕生しました。
 元々、両社は合同で球団経営を行うつもりでしたが、”大人の事情その1”でそれぞれのチームにわかれシーズンに臨みます。

 ところが、その翌年。
 これまた”大人の事情その2”で両球団は、西鉄を主体として合併しパ・リーグに所属。
 新球団名を公募し「西鉄ライオンズ」とします。
 
   「百獣の王」は鮮やかに復活を遂げました。
 
 戦前に「ライオン軍」のスポンサーだった小林商店(当時:ライオン油脂株式会社)は、その名の復活を祝い「西鉄ライオンズの歌」を贈呈、宣伝でのタイアップも行いました。
 不幸な事情で撤退せざるを得なかった企業が、まだ野球を愛してくれていた。
 ちょっとうれしい気持ちになりますね。

大人の事情とは
その1
セ・パの分裂には様々な要因が絡んでいます。
ざっくり言いますと新規参入に反対がセ・リーグを、賛成がパ・リーグを結成した感じです。
当時、西日本新聞は読売新聞(セ・リーグの巨人軍を経営)と業務提携をしていた関係上、やむを得ず単独でチームを持ちました。

その2
8チームで始まったセ・リーグでしたが制度の不備などで運営が上手くいかず、最初のシーズンを終えると2チームの削減を構想。
この時、削減のターゲットとなったのは、「西日本パイレーツ」と「広島カープ」でした。
両球団に解散の意思は無かったのですが、リーグはさまざまな策を弄し両球団を揺さぶります。
結果、西日本新聞は「これ以上リーグの圧迫に耐えられない」と声明を出しセ・リーグを脱退、西鉄と合併することになりました。
一方の広島カープは、大洋ホエールズとの合併も止むなしといわれていましたが、地元の厚い支持によって後援会制度を構築し独立を守りました。 

※西日本パイレーツの解散と合併の詳しい裏側は『国民リーグって知ってますか? 番外編』で詳しく解説しています。

 「西鉄ライオンズ」を率いるのは 三原 脩。
 追われるような形で巨人監督を退任した三原は「打倒巨人」を胸に、西鉄の指揮を執ることになります。
 
 三原が選手たちを厳しく育て上げる一方、球団も当時の大スター「青バット」の大下 弘を獲得するなど、戦力補強に力を入れました。
 次いで、中西 太、豊田泰光、稲尾和久など、後に球界に名を残す新人たちが次々に入団。

 大下を軸に戦力の整ったライオンズは、ついに1954年(昭和29)初のリーグ優勝を達成します。

 その勢いはとどまることを知らず、1956年、57年、58年とリーグ優勝し、日本シリーズでも3年連続で巨人と対決、3連覇を果たします。
 中でも1958年(昭和33)は、西鉄3連敗の後、エース稲尾が4連投4連勝と超人的な活躍を見せ、逆転日本一に輝いたシリーズとして、プロ野球史に深く刻まれていますね。
 神様・仏様・稲尾様なんて呼ばれてました。そりゃ神様&仏様には勝てませんわ 笑。

  
   「百獣の王」はついにプロ野球界の王座に君臨しました。

 その後も西鉄ライオンズはパ・リーグの強豪チームとして、九州のファンを熱狂させます。

 しかしーー。
 雄叫びをあげるライオンの後ろから、球団、いや球界を揺るがす事件の陰がひたひたと近づいて来ていました。


 「プロ野球『百獣の王』は大変だった?後編」はこちらからお読みください!

プロ野球『百獣の王』は大変だった? 前編 ー『ライオン』の名を背負った球団たちー(了)


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